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 その時、突然、がらがらと何かの転がる音が附添詰所であがつた。

「何を!」と喚く声がそれに続いて、烈しく罵り合ふ声が聴えたかと思ふと、とたんに入口の硝子戸が荒々しくあけ放たれて附添夫の一人が転がるやうに病室の中へ駈け込んで来た。と、その後からまた一人が追つて来ると忽ち室内で子供のやうなつかみ合ひが始まつた。

「この、ひようろく玉。」「何を。この薄馬鹿。」「畜生。」「ぶつ殺してくれる。」さういふ悪罵を喚き合ひながら二人はどたどたと床の上でもみ合つた。僧兵のやうに頭の禿げ上つた方が、やがて小兵な相手をリノリウムの上にねぢ伏せてぼかぼかと頭を撲つた。小兵な男は二本の足と二本の腕をばたばたともがいてゐたが、そのうち隙を狙つて下からしたたか相手の顎を小突き上げた。上の男はワッといふやうな悲鳴をあげて一瞬ひるんだが、忽ち物凄い勢で前よりも一層猛烈に打ち続けた。病人たちは仰天してみな起き上つた。静かにしろ、と誰かがどなつた。病室だぞとまた一人が叫んだが、二人の耳には這入らなかつた。と、そこへ当直の坂下が駈け込んで来た。彼はさつき医者を呼びに行つてから、どこか他の病室の附添詰所にでも用があつたのであらう、そのまま帰つて来なかつたのである。彼は物凄い勢で二人に飛びかかつて行くと、

「ここを何処だと思つてやがるんだ。このかつたい野郎!」

 と叫んで、上になつてゐる男の頰桁を平手でぴしやりと叩いて、背後から抱きすくめた。と、下の男が猛然とはね起きて坊主頭をぶん撲つた。

「馬鹿!」と坊主を抱いた坂下が叫んだ。そして彼はいきなり坊主を放すと小兵な男の胸ぐらを摑んでぐいぐいと当直寝台の上に押しつけた。「仲さいは時の氏神つてことをこの野郎、知らねえな!」

「おい、静かにしてくれないか。」

 と私はたまりかねて言つた。

「それ見ろ!」と坂下が言つた。「死にかかつた病人がゐるんだぞ、それで、き、貴様附添か、ここを何処だと心得てやがるんだ。」

「放してくれ、もう判つた。」と押へられた男が言つた、が、にやにやと笑ひながら立つてゐる坊主を見ると、忽ち憎々しげな声で「あん畜生、生意気な野郎だ。」

 坊主は毒々しい嘲笑を顔面一ぱいに浮べながら、

「へッ、どつちが生意気だ。口惜しかつたら外へ出ろ。病室は喧嘩をする場所ぢやねえ。」

「ぢや、なんで手前てめえ俺の頭を撲りやがつたんだ。」

「貴様が生意気だからさ。」

「生意気なのは手前ぢやねえか、バットを三本呑みや死……。」

「よし判つた。」と坂下が押へた。「もつとやりたけりや外へ出てやれ、とめやしねえ。」

 そこへ詰所にゐた残りの附添夫が二人、寝てゐたと見えて単衣の寝衣のまま寒さうに体をちぢめながら這入つて来た。

「おい!」と坂下は小兵から手を放して立上ると、二人に向つて言つた。「手前ら、何だつて喧嘩をとめねえんだ。病室で騒いでゐるのをほつたらかしにしとくとは、ふとい奴だ。」

「ははは、ははは、ばかばかしくてな、とめられもしねえさ。こいつらときたら。」

「何だい一たい、喧嘩のおこりは、ええ?」

 と坂下は訊いた。

「この畜生が……。」と小兵が言ひかけるのを、「手前だまつてろ!」と坂下は一喝を喰はせた。

「おこりはかうさ。初めこいつが――小兵が――バットを三本煎じて呑んだら死ぬつて言つたんさ。するとこの坊主が、いや死なねえつて反対した訳さ。」

「ちえッ。もつとましな喧嘩かと思つたらなんでえ、だらしのねえ喧嘩しやがる。」

 と坂下は唾でも吐くやうに言つた。病人たちがどつと笑つた。

「バットを三本煎じて呑みや死ぬに定つてるぢやねえか。」

 と小兵が苛立しげに言つた。

「ちえッ死ぬもんか。」

 と坊主が言つた。

「死ぬ。」

 と小兵も負けてゐなかつた。

「死なねえ。」

「死ぬ!」

「死なねえ。」

「ぢや貴様ここで呑んで見ろ。口惜しかつたら呑んで見ろ。」

「馬鹿!」と坊主が大声でどなつた。「もし呑んで死んだら手前どうするんだ!」

 病人たちもみな思はず噴き出した。坊主は自分の失言