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かと訊くと、急に激しい調子で否定し、あとはのどをつまらせて泣いてしまふ。彼女自身でも自分がどうして夜中に室を抜け出したりしたのか判らなかつたのであらう。彼女は絶えず喜びと苦痛とを一緒くたに感じて、こんがらがつたままとまどひ続けてゐたのだ。そしてただどうにかせねばならぬといふことだけを切実に感じて、夢中のまま部屋を飛び出したのであらう。

 風が募り、雪は速力をもつて空間を走つた。暗灰色に覆はれた空は洞窟のやうに見え、私は頭上に重々しい圧迫を覚えた。

「野村さん。野村さあん。ゐませんか。」

 病室の方からさういふ呼声がその時聴えて来た。私はとつさに矢内が眼をさましたのであらうと気づいて、

「ああゐますよ、いますぐ。」

 と、急ぎ足で病室へ這入つた。とつつきの寝台にゐる病人が私を見ると、

「矢内さんが呼んでゐるよ。」

 矢内は眼をさまして、じつと視線を近よつて行く私の方へ向けてゐる。

「気分、どう?」

 彼は微笑をしたかつたらしく、目尻にちよつと皺を寄せたが、すつかり肉の落ちた顔ではもはや表情をうごかすことも出来なかつた。

「何か、用?」

「いや、なんにも、用はない。」

 私はふと、彼の眼が異様な鋭さを帯びて来たのに気がつき、すると寒いものが胸をかすめるのを覚えた。彼はじつと私の顔に視線を当ててゐた、しかしよく見ると彼は私の顔を眺めてゐるのではなく、どこか私の背後にでも注意をそそいでゐるやうである。彼の眼にはもう何も映つてゐないのではあるまいか、この鋭さは死を見る鋭さではあるまいか。私はじつとその眼を眺めてゐるうち、その鋭さの内部に、暗黒なものを見つめてでもゐるかのやうな恐怖の色がたゆたふてゐるやうに思はれるのであつた。彼は弱々しい、衰へ切つた声で、途切れ途切れの言葉を吐いた。ひとこと毎にせはしく呼吸し、ともすれば乱れさうになる頭を弱まつた意識のうちに懸命につなぎ合せてゐるらしく、私も彼といつしよに息苦しくなつて来るのだつた。

「苦しい?」

「そんなに苦しくない。」しばらく黙つてゐてから「苦しくないが、頭が、なんだかぼうつとして行くやうな気がする。」

「熱があるのかも知れないね。」

 と言つて私が額にを置くと、彼は幼い児のやうに險を閉ぢた。熱はなかつた。二時ちよつと前にあつた午後の検温では、三十六度二分、といふ低い熱で、かへつて低過ぎるのが心配であつた。死ぬ前には妙に体温が下るものだといふことを何時か聴いたことのあつた私は、額に掌を広げながらも、むしろ熱があつてくれればと半ば願つていた。けれど、

「熱ないよ。これなら大丈夫だよ。さつき睡れたからよかつたんだよ。」

 と私は彼を力づけた。

「眼をさましたら、君が、ゐないので……。」

「淋しかつたのか。」

「うん、俺、今夜、死ぬよ、きつと。」

「馬鹿なこと言つちやいけない。しつかり気をもつて、がんばるんだ。」

 私はじん、としたものを体に感じ、急いで、声に力を入れながら言つた。

「あの子供、きつと、今夜生れるよ。早く生れないかなあ、俺、待つてゐるんだけどなあ。」

 さういふ彼の言葉の中には、今夜生れるといふことを確信してゐるやうなひびきがこもつてゐた。彼がどんなに子供の生れることを待つてゐたか、私の想像も及ばぬほどであつた。彼はもう何度となく、早く生れないかなあ、とくり返してゐたのである。

「生れるよ。きつと生れるよ。」

 と私は強く言ひ切つて黙つた。生れ出る子供よりも、彼の死の迫つてゐることを強く感じさせられて、私はもはや言葉がなかつた。しかし死の近づきつつある彼が、どうしてこれほど子供の生れることを待つてゐるのであらうか。ここへ来る前から小学校で子供を教へ、また入院してからも病院内の学園に子供たちを相手に暮してゐた彼の、本能的な子供好きのためであらうか。私には不可解なものに思はれるのであつた。或は生れ出る子供の中に自己のいのちの再現を見ようとしてゐるのか――。

「湯ざまし。」

 けんどんの上に載せた薬瓶をとつて、私は静かに彼の開いた口中へ流し込んでやつた。薬瓶の中にはかねてから造つて置いた湯ざましが這入つてゐるのである。仰向いてゐるためのどを通しにくいのであらう。彼は口をもぐもぐと動かせてゐたが、やがてごくりと飲み込んだ。