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 夕方六時風呂に出掛ける。今はこの風呂だけが楽しみである。三十分間、わいわいと連中の騒いでゐる中で、黙々と悠々と浸つてゐるのはいい気持である。彼らのとりどりの姿体を眺める。あがつて光岡を見舞ふ。彼元気なり。パインアップルを食ひながら語る。

 支那騒然たり。

 ヨーロッパ険悪なり。

 果して人類は何処に行くのか? 痛ましき限りである。


 八月十五日。

 小(註2)書き上る。五十一枚。

 明日検閲に出すつもり。

 下痢続き、全身ぐつたりしてゐる。下らん作なれど、とにかく五十一枚書いたんだから、まあよろし。


 九月二十四日。

 良い天気。

 胃腸病悪化。

 午後西原女医来診。明日九号病室に入室すべし、と。これで今年は入室二度目なり。

 しかし、かう体を悪くしたのも、元を質せば自ら招けるものなり。あきらめよ我が心。

 けれどかう体が瘦せてはなんだか無気味だ。ふと、このまま病室へ行つたきり出て来られなくなつてしまふやうな気がする。

 あの病室ではAが死んだ。彼は肺病だつた。


 九月二十五日。

 良い天気、涼しい風が吹いてゐる。

 朝、東條、光岡、見舞ひに来る。

 東條の妻君に虫ぼしをやつて貰ふ。今年の春、ナフタリンを入れなかつたので、セル、シャツなどかなり食はれた。柳行李の蓋をあけると、虫の奴がうようよしてゐる。気味も悪いが、しかしなんとなく好奇心も湧いて来て眺める。茶色つぽい虫だ。ここにも生物の世界がある。

 東條の妻君には随分世話になる。感謝々々。けれど人の妻君の世話になつてばかりゐるのは、ちよつと惨めな気もする。しかし、自分はこんな風で生涯を終るだらう。これでよろし。などと展げた着物の下で思ふ。

 夕食後入室。

 舎の連中が例のやうに蒲団などかついで送つて来て呉れた。七号へ入室した時ほどの激動〔シヨツク〕は受けない。ベッドの上に仰向いてゐると、南天にすばらしい光度の星が一つだけ見え、日が暮れるにつれてますます鮮明に輝き、木星であらう、瞬き一つせず悠々と天空にかかつてゐる。

 この病室は色々と思出のある病室だ。まづ第一に思ひ出すのは死んだAのことだ。自分のベッドの隣りで彼は死んだのである。彼が新隔離病室からこちらへ転室して来た時、自分は丁度その病室の附添をやつてゐた。

 次にさきの首相林銑十郎。彼のゴマシホの髯を近々と眺めたのもこの病室で附添をしてゐた時である。その時自分は当直であつたので、白い予防服を着て室の中央に立つて彼を迎へた。彼は顔をしかめながら、かなり深刻な顔つきで、院長その他に附添はれながらやつて来ると、途中で余にちよつと頭を下げて通り抜けて行つた。


 九月二十六日。

 朝、実に爽快な気持であつた。晴れ渡つた空には白い雲がふんわりふんわり流れてゐる。澄明な空気が窓から静かに流れ込んで来る。まだ太陽も首を出したばかりで、窓下の青桐の梢だけが朝日を受けて赤らんでゐる。大地は適度に湿つて黒ずんでゐる。その土を踏んで散歩してみたい欲望がしきりに湧くが、あきらめるより致方もない。

 七時、朝食。

 散薬を飲んでぼんやりしてゐると光岡が来た。『文藝』十月号を貸してやる。

 今日は日曜故室内は静かである。あちこちのベッドでぼそぼそと話声がする程度。体温は朝三十六度九分。午後、頭が痛むと思つてゐると、八度七分あつた。朝の爽快な気分は朝食後消えてしまひ、腹の中に食つた物が消化せず溜つてゐるので、気持の悪いこと一通りでない。便所へ四度出かけてがん張つたが遂に出ず、五度目になつてほんの小量脱糞した。これでかなり気持が良くなつた。しかしまだ十分でない。腹痛がする。

 創元社の小林氏より来信。早く長篇が欲しいと言はれる。この調子では何時になつたら出来ることやら。


 九月二十七日。

 林房雄氏の『上海戦線』を読む。

 やはり作家が出かけて行つただけのことはあつたのである。あの文章はやはり作家の文章であつて、それ以外の者には書けないものである。