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 六月二十九日。雨。

 仕事にかかるつもりでゐたが、やつぱり今日も出来ない。頭がどうしたのかまとまらない。そんなに重い訳ではないのだが――。やつぱり、疲れてゐるのだらう。

 予定通り、今朝は思ひ切つて八時まで寝たので、気持は良い。

 朝食後すぐ医局へ行き、この前つめたゴムを取つて貰ふ。ゴムの下で痛んでならなかつたのである。物療科へ行くと五十嵐先生がびつくりしてゐた。もう帰つては来まいと思つてゐられたのであらう。忙しさうだつたので何も語れず、黙つて帰る。

 昼食後、「ドストエフスキーの生活」――『文學界』所載、小林秀雄――を読む。『罪と罰』を書いた当時のドストを思ひながら色々と考へ込んでゐると、光岡君がぶらりとやつて来た。這入つて来ると彼は、大学時代の制服のボタンを外しながら、

「書いてゐないやうだつたから――。」

 と言つて上服を脱いだ。

「うん。今『ドストエフスキーの生活』を読んでゐたんだ。」

「ああ、窓から覗いて見たよ。書いてゐるんだつたら帰らうと思つて――。」

「書けないんだ。」

 彼は、机の前に貼りつけた予定表を、首を伸ばして眺めてから、腰をおろした。

「どうしてゐた?」

 と訊くと

「源氏を読んでゐた。桐壺の巻。昨日、ここで、和辻さんの『日本精神史研究』をちよつと読んだらう。あの中の、『もののあはれについて』のところね、それで。」

 それから、源氏について二三話し合ふ。

「君は源氏のやうなものを読んでるんだらう。ところが反対に俺はドストエフスキーを読んでゐるんだね。この違ひが実にはつきり君と俺との相違を物語つてゐるよ。」

 と自分は、今度書く小説の中には、かういう風な対比の場面を書き込んだら効果的に違ひないなどと思ひながら、言つた。

 雨の中を、番傘傾けながら二人で散歩する。途中彼は、昨夜出席したこの院内の文芸家 (?) 協会に就いて語る。大したものが出来たと二人で笑ふ。

 夕食後、本棚から『罪と罰』を引き出してパラッと広げて開いた所から読み始める。ちやうどラスコリニコフがソーニャに自分の殺人を暗示するところだつた。不意にソーネチカの足に接吻する場面と心理、ソーニャがラスコリニコフにラザロの復活を読んでやる場面、なんといふ素晴しさであらう。

「どうしてそんな穢らはしい賤しい事と、それに正反対な神聖な感情が、ちやんと両立してゐられるんだらう。」

 といふラスコリニコフの疑問にぶつかつた時、ふと、ドミイトリイの言葉を思ひ出した。

「美――こいつは恐しい、おつかないものだぞ! はつきりときまつてゐないから怖しいんだ。しかもはつきり定めることができないのだ。だつて、神様は謎より他に見せてくれないんだからなあ。美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾がいつしよに住んでゐるのだ。おれはね、ひどい無教育者だけれど、このことは随分と考へたものだよ。なんて神秘なことだらけだらう! この地上では人間を苦しめる謎が多すぎるよ。この謎が解けたら、それこそ、濡れずに水の中から出て来るやうなものだ。ああ美か! それにおれの我慢できないことは、心の気高い、しかも勝れた智能を持つた人間が、ともすればマドンナの理想をいだいてゐて踏み出しながら、結局ソドムの理想に終ることなんだ。もつと恐しいのは、すでに姦淫者ソドムの理想を心に懐ける者が、しかも聖母の理想をも否定し得ないで、さながら純情無垢な青春時代のやうに、ほんたうに、心から、その理想に胸を燃え立たせることだ。いや、人間の心は広大だ、あまり広大すぎる。おれはそいつを縮めてみたいくらゐだ。ええ畜生、何が何だかさつぱり判りやしない。ほんとに! 理性では汚辱としか見えないものが、感情ではしばしば美に見えるんだ。ソドムの中に美があるのかしら? ところが、お前、ほんたうのところ大多数の人間にとつては、このソドムの中に美があるんだよ――略――」

 ちよつと書くつもりの日記が長くなつてしまつた。なんにも出来ないせゐか、この頃、日記を書くのがひどく楽しみだ。

 S君と女のことなど語る。やつぱり結婚して草津に家を建てて落着くのが一番良いやうに思ふ。しかし、苦しい。真実、苦しい。癩、癩、呪ふべき癩。


 六月三十日。午前中雨。後曇。

 平凡な一日。S君の退院定る。来月三日。名前だけは軽快退院だが、実際は入院当時よりずつと病気は悪くな