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へた姿はさすがに見事だ。さうだ見事だ、それでよい。何事も今の自分は考へてはならぬ。とりわけその経済的機構については。廃兵だ! だが泣いてはならぬ。自嘲してはならぬ。よいか! 何時かの日記に書いたではないか、「心に悲しみあれば傲然と胸を張つて四辺を睥睨すべし。この醜悪なる現実を足下に蹂躪して独り自ら中天に飛翔する喜びを体得せよ。」と。


 十二月二十日。

 憂愁につつまれた一日。どんよりと曇つた今日の空模様のやうに、艷のない灰白色の一日であつた。昨夜は三時近くまで例の骸骨に悩まされて睡られず、その故か今日は朝からづきんづきんと頭が痛む。こんな日はせめて明るい随筆でもと机に向つたが、もとより書けやう筈もない。今の自分の世界になんで明るいものなどあらう。明るいものを求めるだけでもきまりの悪い思ひである。文学も哲学も宗教も糞喰へだ。僕の体は腐つて行く。ただ一つ、俺は癩病が癒りたいのだ。それが許されぬなら、神よ、俺を殺せ。

 昼頃川端先生に葉書を書く。あのやうに親切な言葉を戴き、父親のやうな (失礼な、とは思ひながら) 深い慈愛の眼で自分を見て下さるのに、どうして今の自分の気分のままを書けよう。先生だけには明るい言葉をお伝へしたい。それだのに、ああ、自分のこの絶望をどうしよう。「間木老人」が発表された喜びも、その他先生から戴いたお手紙の数々の中に記されてあつた喜びも、束の間の喜びに過ぎぬ。時間が経つて平常な気持に還れば、またしても病気の重苦しさがどつと我が身を包んでしまふ。小説を書く、有名になる、生き抜く、苦悶の生涯。――美しいことである、立派なことである。だがしかしふふんと嘲笑したいのが今の自分の本心である。見るがよい、重病室の重症者達を! あの人達が自分の先輩なのだ。やがて自分もああなり果てて行くのは定り切つてゐる事実なのだ。軽症、ふん、生が死を約束するやうに、軽症は重症を約束する。葉書をポストに入れてから新聞を見に行き、例のやうに文芸欄を展げて見るが、文壇なんて、なんといふ幸福な連中ばかりなんだらう。何しろあの人達の体は腐つて行かないのだからなあ。今の俺にとつては、それは確かに一つの驚異だ。俺の体が少しづつ腐つて行くのに、あの人達はちつとも腐らないのだ。これが不思議でなくて何であらう。今日はどうしたことだらう、そんなことばかり考へる。

 三時 (午後) 頃になるとますます頭が痛んで来る。無論後頭部だ。じつとしてゐると気が狂ふに相違ない。夢中になつて家を飛び出し、十号病室へ出かけて行く。相変らず東條は黙々と詩作を続けてゐる。

「詩なんか止してしまへ!」

 と呶鳴りつけたい衝動が起つて来る。俺は文学をもう止すぞ、と実は言ひたいのだ。

「どうしたんだ。」

 と東條が筆を休めて言ふ。

「気が狂ひさうなんだ。小説を書くなど、もう止めようと思ふ。」

「ふん、又か。それもよからう。それで一体どうするんだ。首をくくる自信があるのか。」

 私はもう黙つてしまふより致方がない。文学を止めて一体どう生きる態度を、いや、その日その日の生活を決定して行つたらいいだらう。十月頃目白や頰白を飼ひ、それによつて生活を定めようと試みてみたが失敗した。次には植物学を始めてみたが失敗した。

「俺達には文学だけしかない。これはもう解り切つたことではないのか。それに君は今になつてそんなこと考へる必要はないだらう。小説だつて世に出始めたんではないか。川端先生にも申訳ないぞ。」

「それはさうだ。ほんとに申訳ない。しかし考へてみろ、俺の体は腐つて行く、さう考へ出したら最後、どうしやうもないんだ。」

 東條は黙つて溜息をついてゐたが、

「俺にはもう何とも言へない。しかし、兎に角、君、結婚しろ。そして草津の療養所で自由舎でも建てるのだなあ。それより他、ほんとにどうしやうもないんだから。」

「ううむ。それ以外は首を吊るすだけだ。それは、俺も解つてゐるんだ。解つてゐるんだが――困つたなあ。」

 結婚すれば盲目になつても代筆して貰へば小説は書けるのである。しかしそれにはどうしても避妊法を考へねばならない。金がかかればなんにもならない。もし誤つて子供が出来ればどうなるか、今の自分の苦悩が子供にまで延長するのだ。癩者は子供を生んではならぬのだ。未感染児童保育所の設備もある。しかしそれ等の児童が果して幾年後に発病しないと決定し得ようか。確実な避妊法と言へば、最早断種以外にないのである。断種とは輪精管の切断なのだ。それもよい。しかし若しそれが頭脳に影響したらどうなるか。頭に影響しないとは医者も言つてゐる。それならそれを信じよう。しかし、その後