の作が失敗すれば――さう余は決心してゐる。感じのよい原稿紙で傲然と書かう。もう最後になるかもしれぬ作の原稿紙だ、せめて百枚四十銭、一流作家のものと同じもので書かせて呉れ。
九月十七日。
此の間シャルル・ルイ・フイリップの『ビュビュ・ド・モンパルナス』を読んだ。そして、昨日『若き日の手紙』を売店から持つて来て呉れた。以前に頼んであつたものだ。この二つ以外フイリップのものは、春陽堂文庫の短篇集 (堀ロ大學訳) を一つしか僕はまだ読んでゐない。これ等の美しい、宝玉のやうな書物は、僕に、この書と同様の美しい色々のことを考へさせて呉れる。僕は幾度もそれ等のことに就いて書きたく思つた。けれど未だ一字も書いてゐない。そして今になつて思ふのは、一字も書いてはならないといふことだ。何故なら、表現するといふことは、投げ出すことであるからだ。僕は投げ出したくない。何時までも頭の中に蔵つて置き、まさぐつてゐたい。そしてそれに感動し感情を波立たせたい。これは生涯の愛読書、そして愛読書に就いては、何事も語るべきではない。
九月×日。(日附不明)
お盆の頃の、あの激情的な気持も、徐々に冷え、今ゐるこの部屋、机、積み重なつた書籍の陰を、静かに秋がくまどつて行く中で、シャルル・ルイ・フィリップの『若き日の手紙』など拾ひ読みする。何かもの悲しいしかし落着いた気持である。『若き日の手紙』――これはまたなんといふ温かくも美しい書物であらう。フィリップが死んだ時、アンドレ・ジイドは言つた。「此の度逝きしところのもの、そは一つの真実であつた。」と。又曰ふ、「彼は小さくて気が弱くて、万事へまである。彼は物質を以て成功するに代るべき肉体的に勝れた何ものをも持たず、生れつきやさしく慈悲深く出来てゐるから、彼は本質的に苦しむ為に生れて来たやうなものである。」と。彼の祖母は乞食で、木靴師の父親も小さな時には物乞ひをしてパンを得なければならなかつたといふ。たとへば、『ビュビュ・ド・モンパルナス』を読んで見るがいい。夜毎アーク灯に照らし出される巴里の街頭に
九月×日。(日附不明)
故坂井新一氏の遺稿詩集『残照』を一部贈られた。素朴な、そしてそれ故に私達の心を温めてくれる本。よく出来てゐるねえ、と折よく来合せた岸根光雄君に言ふと、いいねえ、と感じのこもつた声で彼も言つた。二人は暫く黙りこみ、彼は、この病院で働いてゐた当時の坂井氏を想ひ浮べてゐるのであらうか、私は一度も面接したことのないこの詩人を色々に描いて見る。私達の最も憎むべきもの、それは人生のデイレッタントである。さういふ感じの露ほどもない坂井氏の詩集は、きりきりと私の心にもみこんでくる。「秋冷の譜」「寂寥の譜」と読み進み、更に「男と過去」に至ると、何か息のつまるやうな鋭い苦しさに打たれ、目の前を横ぎる黒いものをはつと感ずる。死、死の色である。最後の一瞬の生への強烈な燃焼力、と藤本氏はその序文で言つていられる。ひたひたと寄せてくる死と、一見醜悪にすら見える生命力との激しい、激しい戦ひ、私は言ふべき言葉がない。だが最後の「島のサナトリウム」に来ると、戦ひ疲れて腰を落し、淡く心をつつんでくる切ないあきらめがあり、「途上」では最早一つの解脱を見る。静かに、先途を、歩み来つた過去を眺め、たぢろがず内省してゐる。私ははからずも思ひ出す。フィリップに言つたジイドの言葉を――「此の度逝きしところのもの、そは一つの真実であつた。」
九月×日。(日附不明)
朝、昨日から読み続けたストリンドベリの『死の舞踏』を読み終る。主人公エドガールを作者はバンピールだと言つてゐるけれど、読後自分の心に残つた彼は、反つて弱々しい人間であつた。人間の誰もが有つてゐる弱さは、我々には及びもつかぬこの意力家の心の中にも流れてやまず、その弱さに触れた時どうしてエドガールを憎み得よう。ああ世にも不幸な男と私は吐息をし、なんといふ強い男の弱さであらうと胸の締まる思ひがした。暗い、実に暗い墓場の中で行はれてゐるやうな悲劇であり、お互に結婚した瞬間から憎悪し合ひながら遂に別れることの出来ない老夫妻の結婚物語であるにもかかはらず、醜