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のやうに思へてならない。Yesであつて呉れればいいが――。

 家に帰つてY君とM君との棋を見てゐると、東條がのつそり来る。もう八時過ぎであつた。彼の姿を見た刹那、返事があつたなと思ふ。二人で散歩。

 返事は、僕の予想が的中してYesであつた。ほつと安心する。彼はしみじみ君に心配かけて済まなかつたと言ふ。そんなことより僕には、無事に解決したことが嬉しいのだ。けれどこのままうまく彼が起き上つて呉れればいいが、又再び新しい苦難が彼の前に立ちはだかつて来るのではあるまいか、さういふ不安が僕の心を離れない。

「今後もどんな苦しみが君の前にやつて来るか判らない。けれどかうなつた以上は、もし君が絶望すれば、君だけでなく、新しくその人も苦しまねばならないのだ。もはや苦しみは君個人のものでは決してなく、君の苦しみは彼女の苦しみであると思ふ。だから戦つて呉れ。『盲目』はどうしても書き上げろ。」

 と彼に自分は言つた。彼は力強くうんと言つた。僕はこの時程彼を頼母しく思つたことは嘗てなかつた。九時頃彼の所へよると、T・N君とT・K君が来てゐた。T・N君やT・K君が帰つた後で二人でお茶を飲み、心から彼の婚約を祝つた。淋しいしかし力の満ち寄せるよろこびが心にある。そこで泊る。


 七月十九日。

 Sのことなんか忘れてしまへ! 書け、猛然と筆を執れ‼ 傑作「晚秋」を書きあげろ‼


 七月二十二日。

 糞喰へだ! 何もかも糞喰へだ‼ Sがなんだ、i〔アイ〕がなんだ。何もかも、片つぱしからぶち潰してしまへ。女も要らぬ! 恋も要らぬ! 酒だ、酒だ、酒が飲みたいのだ。


 七月二十三日。

 「晚秋」を書き始めてからもう十日近くになる。が、まだ十一枚しか書けない。けれど決して焦らない。毎日ぼつぼつ書く。今日も二枚ばかり書いた。これでいいのだ。これでいいのだ。十一時から東條、K、S、E、K、僕の六人でピクニック。一時頃帰る。「晚秋」が頭を離れない。宇津が頭にちらつく。それから、どうしたのかまたSのことが頻りに頭に浮んでならない。けれど浮ぶ度に、女も恋もあるものか、「晚秋」だ「晚秋」だと心が激しく波立つて来る。悲しくはないのだ。淋しくはないのだ。いいか、強く生きてみろ強く。決して自分を疑つてはならないのだ。


 八月三日。

 暫く書かなかつたが、今日は作品が (「晩秋」、三十一枚になつた。) 書けさうにもないので、久しぶりでこの日記を書く。静かな気分だ。ここ数日毎日机にかじりついた切りで滅多に外出しなかつた。勿論女のことなど忘れた。自分はひそかに思つてゐる。口には出さないが、生涯独身で暮したいと。


 八月三十一日。

 ながく日記を怠つてゐたが、今日は書く。書かなかつたのはこの一ヶ月「晩秋」七十枚と「少女」二十枚を書いたためである。「少女」の方はふと思ひついて楽しみながら書けた。力の這入つてゐないのは仕方がない。何しろ一日で書き上げたのだから。「晚秋」はこれこそと力を入れたのであつたが、書き上るともう見るのもいやになつて押入れの中に投げ込んで置いた。欠点ばかりが目立つて来てならない。実に考へて見るだけで不快な気持になる程の駄作だ。けれどあの作で自分は自分の今後 (生き抜くか死ぬか) を定めなければならないのだ。主人公の宇津は言ふまでもなく自分だ。肉体的に、根本的に、性格的に、副主人公の藤原さんはやはり自分の一部だが、彼は自分の知識、理性、後天的な能力。前者が余の裸の姿とすれば、後者は、知性といふ衣だけの自分だ。更に前者は感情的な、肉体的な、詩人的な自分で、後者はその反対の自分の姿、具体的な人間なのだ。この二人の闘争こそ自分、余自身の内部的苦闘なのだ。この二人を調和させること、統一すること、それこそあの作品を書く目的なのだ。ところが七十枚に書き上つたのでは何等その解決がついてゐない。押入れに投げこんだままどうして済まされよう。どうしてももう一度書き改めて、解決をつけなければならない。さうでなければ余は行き場がない。

 今日作品社から原稿紙が五百枚来た。高い原稿紙だ。送料共五百枚で二円十五銭かかつた。だが余は買つた。「晚秋」を書くためだ。この作によつて余は死ぬか生きるか決定しなければならないのだ。文学を止めよう、あ