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一九三四年 (昭和九年)

北條民雄

 七月十三(註1)

 盆が遂に来た。何の親しみも光りもない盆が。数日前から踊りの練習をやつてゐるが、自分は足の傷が癒らないので、それも出来ない。出来るならば、自分も精一ぱい唄を唄つて踊りたい。一切を忘れることが出来るならば、それ以上の嬉しいことが他にあらうか。足の傷は野球をやつてゐて、踏まれたもの。もう十三日になるのに穴の深さが浅くならぬ。傷の所が麻痺してゐる故、痛みとてはないのだが、癒りの悪いことは二倍である。これが健康時ならば二週間も経てば良くなつてしまふのだが。

 痛みとてはないのだが、疵があるといふことは自分にとつては苦しみの導火線だ。弱り切つた自分の神経は、どんな些細なことにもそれを利用して狂ひ始めるのだ。疵をしてからの自分の不安と焦燥は筆紙に尽せぬ。原稿は書けぬ。日記すらやうやく今日になつて思ひついて書き始めたくらゐだ。


 昨日から雨が降る。長い間待つてゐたものである。雨は流石に自分の心を落ちつかせてくれる。これだけの日記文を書くことが出来るのも、言ふまでもなく雨のお蔭だ。この雨の為に石川県辺りでは水害で弱つてゐるとのこと。今日の新聞では六十人の溺死人を出したといふ。けれど自分は雨を愛す。例へ一万人の溺死人が出る程の洪水になつたとて、自分は雨が好きなのだから仕方がない。


 日記を書きながらじつと外を見る。霧のやうな細い雨が前の筑波舎の屋根に注いでゐる。庭に咲き始めたグラヂオラスが何の故にか胸を伏せて仆れてゐる。

 今朝起きたのは六時であつた。雨は小降りであつたが、降りさうに空は曇つて険悪である。

 七時頃、桜井、小川、花岡、上村、佐藤、松川、自分の七人でアミダをやる。自分は弱籤で八銭とられた。が、菓子は甘かつた。腹工合が悪くなつた。

 九時頃外科に行く。足の疵は相変らず深い。だが痛みのないことが幾分でも自分を救ふ。痛みのないことは癩の特長であると同時に、治ることの長びくことを意味するけれど、自分は、痛いのは何より閉口だ。


 盆の記。

 一向盆らしくない盆だ。それは気分が第一さうであるが、天候の工合も盆らしくない。降るといふのでもないが、どんよりと曇つて寒く、夜など蒲団をすつぽり被つて寝ないと寒気がするくらゐである。団扇や扇の要らない盆なんて丸切り感じが出ない。盆はやはり苦しくとも暑い方がよい。

 十四日、十五日、十六日、と村の人達は踊り狂つた。就中なかんづく十六日の夜は徹夜で踊つた者もあつたくらゐだ。自分も拙いながら踊つた。笠踊り、八木節、東京音頭の三つを自分は踊れるやうになつた。生れて初めてであつたが、踊りも亦面白いものだ。けれど自分には踊りながらも浮かれるといふ風な気持にはなれなかつた。これは仕方がない。菖蒲(註2)の彼女達も総出で、盛装を凝らして踊つてゐた。凡そグロテスクな面や足を持つてゐる彼女達であり、平常は男女の識別も怪しい彼女達ではあるが、何気なく踊つてゐる一つ一つの動作の内部にも外部にも、やはり女らしい線の弱さと、柔かい弾力に溢れてゐて、自分はその美に打たれた。百合(註3)の女の子達の踊りには自分は真実泣かされた。この小宇宙に生れ、そしてそれに満足して、いや慣れ切つて、一切の苦しみすらも感ずることを失つて、ただ無心に踊つてゐる。その可憐な容子は実際涙を誘はずにはゐない。


 七月二十一日。

 盆も過ぎた。今日ははや二十一日になつてゐる。自分が此の病院に来てから、最早二ケ月が過ぎてしまつた。その間に自分は何をやつただらうか。僅かに『山(註4)』七月号のコントを四枚書いたに過ぎない。考へて見ると情ない話だが思ひの纏まらぬことは仕様がない。昨日は当院で芝居があつた。久振りで見た「弁慶上使」は良かつた。やはり自分の魂の中には、ああした古典の優美を愛する感情が流れてゐるのだ。それからあの中に出て来る女中の「忍」といふ女の声から体つき、面影まで亀戸の君ちやんにそつくりだつたのであきれた。君ちやんに会つて見たいやうな気持になつた。彼女はまだ例のバアに働いてゐるであらうか。どうかすると結婚したかもしれぬ。