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などしようともしないのである。

「しかしもう大丈夫だよ、今夜は先生と一緒に散歩しながら帰らうよ、ねえ。」

 太市は黙つて下を向いたまま、畳の焼穴に指を突込んで中から藁を引き出し始めるのだつた。鶏三はちよつと当惑しながら、

「太市はトマト好きかい?」

 と食物の話に移つてみると、

うら、好かん。」

 と太市は笊を見ながら答へた。

「この前あげたチョコレートはうまかつたかい。」

「うん。」

「さう、ようし、それでは今度は先生がもの凄くでかいのを買つてやらう。ねえ。」

 太市は相変らず下を向いて、顔をあげようともしないのであるが、案外に素直なその答へ方に鶏三は胸の躍るやうなうれしさを味つた。

「太市は面白い唄を知つてゐたね。あれ、なんて言つたつけ、つくつく法師なぜ泣くか、それから?」

 太市はちらりと鶏三を見上げたが、すぐまた下を向いて頑固におし黙つたまま、じりじりと後退りを始めるのであつた。鶏三は暫くじつと太市の地図のやうになつた頭を眺めてゐたが、ふと奇妙なもの悲しさを覚えた。かうした少年を導かうとする自分の努力が、無意味な徒労と思はれたのである。それにこの少年を一体どこへ導くつもりなのか、結局この児にとつては、林の中や山の裏で、蚯蚓みみずやばつたを捕へながら独りで遊んでゐるのが一番幸福なのではないか。それに少年とはいひながら、この児の前途に何が来るか明かであつた。あと二三年のうちには多分盲目になるだらう、そして肺病か腎臓病か、そんな病気を背負ひ込んで長い間ベッドの上で呻き苦しむ、そして一条の光りも見ることなく小さな雑巾を丸めたやうに死んでしまふ――これがこの児の未来であり、来るべき生涯である。年は僅かに十三歳ではあるけれども、しかしこの少年にとつてはもはや晚年である。そしてこの少年と全く等しい運命が、他の凡ての子供にも迫つてゐるばかりではない、鶏三自身もこの運命に堪へて行かねばならぬのである。子供たちの生活の中に生命の力を見、美しさを発見して、それを生きる糧としてゐた自分の姿さへ、危く空しいものと思はれるのであつた。人生とは何だ。生きるとは何だ。この百万遍も繰りかへされた平凡な疑問が、また新しい力をもつて鶏三の心をかき乱した。

「太市、帰らうよ。先生と一緒に帰らうね。」

 それに、太市も鶏三もさつきの夕立でびつしより濡れてゐた。無論夏のこととてそれはかへつて涼しいくらゐであつたが、しかし体には悪いであらう。

「お父さんは太市が幾つの時に亡くなつたの?」

 しめつた土の上を歩きながら訊いてみた。

「九つだい。」

 と太市は怒つたやうな返事であつた。

「太市はお父さん好きだつたかい。」

 しかしそれにはなんとも答へないで、急に立停ると、足先でこつこつと土をほじりながら、

「ばばさん。」

 と呟いた。

「ふうん、ぢやあ太市はばばさんが一等好きだつたの。」

「うん。」

「ばばさんはいま家にゐるのかい?」

「死んだい。」

「ふうむ。幾つの時に。」

「七つだい。」

「太市はつくつく法師の唄、ばばさんに教はつたの、さうだろう、先生はちやんと知つてるよ。」

 鶏三は、月光の中に薄く立ち始めた夜霧を眺めながら、まだ五つか六つの太市が、祖母の膝の上でつくつく法師の唄を合唱してゐる光景を描いた。太市は、どうして知つてゐるのか、と問ひたげに鶏三を見上げたが、急に羞しげな、しかし嬉しさうな微笑をちらりと浮べた。

「太市はお母さんのところへお手紙を出してゐるかい?」

 と鶏三は今度は母親のことを訊いてみた。どうしたのかその母親はただの一度も面会に来ないのである。しかしまだ生きてゐることは明かであり、太市がその母を慕つてゐることも、この前の老人の面会の時駈け出したのをみても明かであつた。

 すると突然太市はしくしくと泣き始めるのであつた。そして手紙を書いてもどこへ出したらいいのか判らないと言ふのである。切れ切れに語る太市の言葉を綴り合せてみると、長い間患つてゐた父が死ぬと、母親はどこかへ男と一緒に、この前面会に来た祖父と太市を残したまま「どこへやら行つて」しまつたといふのである。その後のことは鶏三がどんなに訊いてみても、もう太市は語らなかつた。そして長い間地べたにかがみ込んでなかなか