鎭守府將軍と爲す。八月、賴義、八幡の祠を鎌倉鶴岡に建てゝ戰功を賽す。
七年七年春、賴義、義家
諸の降虜を以て入朝し、奏して有功の將士を賞せんことを請ふ。朝議未だ許さず。故を以て未だ任に赴かず。任國
登らず。私資を以て
貢賦を
濟す。是の如くせしこと二年、
賴義上書上書して
重任を請ひて曰く、「臣聞く、人臣勲功を建てゝ、恩賞を受くることは、
和漢古今同じき所なり。是を以て或は
徒隷より起りて、
金紫を
係け、
卒伍より出で、
將相に至る者ありと。賴義、功臣の
裔を以て
恪勤の節を
効すこと
舊し。
適東夷蜂起し、郡縣を
侵盜し、人民を
鈔略す。六郡の地、
皇威に服せざる者數十年なり。近歲に及びて、日に
益猖獗なり。賴義、永承六年を以て、任を彼州に受け、天喜中に至りて、兼て
鎭府に
帥たり。臣、鳳凰の詔を
啣み、以て
虎狼の國に向ひ、
堅を
被り
銳を
執り、身に
矢石を受け、千里の外に暴露して、萬死の途に出入す。天子の威と、將卒の力とを籍りて、終に其功を奏するを得たり。其
渠帥安倍貞任、
藤原經淸等、皆
誅戮に伏し、首を京師に傳ふ。其餘の
醜虜安倍宗任等、手を束ねて歸降す。
其巢窟を
掃ひ、之を縣官に
收む。叛逆の徒、皆王民と爲る。功績を錄することを蒙り、伊豫を守るを得たり。
聖恩を忝くし、
欽荷に
暇あらず。而して
餘燼を鎭服するを以て、
猶奧地に留