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然れども、余おもへらく、藤原氏の驕專なる、其來る久し。獨、文徳の時に始りしに非ざるなり。鎌足鎌足かまたり、天智を助け、力を王室にいたし、其子不比等ふひと四朝【四朝】持統、文武、元明、元正の元老たり。文武、聖武、並に其女を娶りて、孝謙は其外孫女なり。而れども皆淫縱、みの押勝おしかつ、孝謙に嬖せられ、殆ど國家を危くす。實に不比等の孫なれば、則其家法知るべきなり。其後光仁、桓武、仁明、獨、藤原氏に出でず。而して平城より以下、文徳に至るまで、又みな其出なり。文德の外男左大臣冬嗣ふゆつぐは、不比等四世の孫たり。冬嗣の子良房よしふさ、又女を文德に納れて、淸和を生む。文德、長子の惟喬これたかを立てんと欲して良房をはゞか遂に淸和を立つ藤氏の積威一日に非ず則藤原氏の威人主を懾する一日に非ざりしこと又知るべきなり。淸和、生れて九歲にして位に即く良房外祖を以て政を攝す。其子の其經もとつね、陽成を廢して、光孝を立て、萬機を攝關す。攝關號の始攝關の號此に始まる。基經の二子時平ときひら忠平たゞひらあり。忠平は朱雀の朝に攝政す。其二子の實賴さねより師輔もろすけと並に三公に列す。是に於てか、天慶の亂あり。冷泉の二弟、爲平ためひら守平もりひらあり。村上、爲平を立てゝ、冷泉の儲貳まうけきみと爲さんと欲す。而して實賴等、其藤原氏の出に非ざるを以て、之を沮みて守平を立つ。是を圓融とす。是に於てか、安和の變あり。藤氏と帝室との關係を論ず師輔三子あり。伊尹これたゞ兼通かねみち兼家かねいへと曰ふ。兼家三子あり。