八歲なり。時子に問ひて曰く、「安に之くか」と。時子曰く、「虜、矢を御船に集む。故に將に他に徙らんとす」と。遂に與に俱に海に投じて死す。皇太后、繼いで投ず。東兵、其髮に鈎して之を獲たり。行盛、有盛、之を聞きて、皆力戰して死す。敎經、驍名素より著る。敵爭ひ之を獲んと欲す。敎經、殊死して戰ふ。敵を殺す數なし。知盛知盛、呼びて曰く、「公盍ぞ早く自計を爲さゞる。多く雜兵を殺すと爲すなかれ」と。敎經曰く、「中納言、吾れ義經と死を决せんと欲するのみ」と。乃、進みて義經を索む。卒に之と遇ふ。敎經、冑を免ぎ、鎧袖を撤し、躍りて其船に入る。敵兵遮り鬪ふ。輙搏ちて之を仆し、直に義經に逼る。敵中、安藝家村といふ者あり。力三十人を兼ぬ。二力士を率ゐて、進みて敎經に當る。敎經蹴りて其一人を仆し、二人を挾みて、海に投じて死す。宗盛、淸宗と自裁する能はず。從士之を海に擠す。泅ぎて遁る。敵兵鈎して之を獲たり。藤原景經は、景淸の從弟なり。之を見て曰く、「奴輩、敢て吾が君を辱かしむるか」と。進みて一人を斬り、箭に中りて死す。知盛聞きて切齒する久くして曰く、「吾れ以て死す可し」と。敎盛と皆自殺す。平家長等八人之に殉ず。壽永二年三月廿四日平氏滅ぶ時に壽永二年、三月廿四日なり。經盛、資盛、皆遁る、已にして自殺す。