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緖㆒而已。
いかゝして君かみのりのともし火を暗きみ山の庵にてらさん
君かたのむ寺のむかしの座こそ此山さとにすみかしめけれ
君ならて誰か覺らん草の庵やかて蓮の臺成とは
九品の蓮の露にやとりけん月の光を見ぬそかなしき
とゝめけむ心の底をしるへにて此山里にすむ人もかな
當寺者。弘法大師御建立舊跡云々。便宜之時。以㆓此旨㆒可㆘令㆓洩達㆒給㆖。恐々謹言。
十二月十四日 三品判
十一月十八日。參㆓‐詣瀧寺㆒。〈坂十六丁。〉此寺東向高山有㆑瀧。古寺礎石等處々有㆑之。本堂五間。本佛御作千手云々。
一誕生院緣起之事
右當所者。弘法大師御誕生處也。昔定有㆓精舍㆒。宛如㆓釋迦如來淨飯王宮生處塔㆒。而五百廻ノ星霜相遷之間。唯遺㆓基跡㆒尙無㆓礎石㆒。于㆑爰行竝上人者。寬元三年木像御影建立之時。卽與㆓寺僧㆒共評議シテ。於㆓此御誕生所㆒建㆓‐立一堂㆒。可㆑安㆓‐置之㆒云々。因㆑茲或勵㆓自力㆒。或唱㆓勸進㆒。以㆓今年建長元年巳□月十日㆒手斧始。同二月二日棟上。大公沙彌陀佛。同年五月一日〈戊申〉寅時有㆓鎭壇㆒。阿闍梨道範。
以㆓我功德力㆒。大師加持力。及以㆓法界力㆒。
願我成㆓吉祥㆒。今此一伽藍。奉㆓慈氏下生㆒。
興㆓隆諸佛法㆒。利㆓‐益諸衆生㆒。
大勸進阿闍梨道範
建長元年五月廿一日。此諸國流人赦免之宣下有㆑之。同六月八日件院宣幷六波羅下知狀及長者御房御書狀來着。仍卽可㆓歸洛㆒之處。自㆓同十二日㆒本病更發不㆑能㆓出行㆒。經㆓四十餘日㆒付㆓小減㆒。臨㆓歸山之期㆒。七年之間。世出世之事無㆓內外㆒申談之人之許へ申遣云。
なゝとせのたえぬむくひの末の露同しはちすの上に遊はん
彼返報云。七ケ年之祇候。一生中之大幸也。唯賴者世々欲㆑蒙㆓御引接㆒云々。