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セン病が恐ろしい伝染病であるとの徹底した恐怖宣伝をしつつ、無らい県運動を推進し、未収容患者を次々と収容し、しかも厳格に患者と社会との交通を絶ったのである。

 この政策遂行過程において、一般人には、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるという誤った認識を与え、これまでなかった感染の恐怖というハンセン病に対する新たな差別・偏見を作出・増強した。

 2 戦後の状況

 戦後、日本国憲法により基本的人権が保障されるようになり、また、医学的にも、ハンセン病に対する特効薬であるプロミンが開発されて治癒する疾病となったにもかかわらず、厚生省は、戦前の絶対隔離絶滅政策をそのまま維持し続けたのみならず、さらにこれを強化した。

 すなわち、昭和二四年六月の全国療養所長会議において、第二次無らい県運動の実施が決定され、療養所の収容力の増強と患者の一斉検診により、未収容患者の収容徹底が図られることになったのである。そして、旧法の隔離構造をそのまま受け継いだ昭和二八年の新法制定は、絶対隔離絶滅政策の継続を法的に確認するためのものであった。

 ハンセン病患者が、無らい県運動により作出・助長されたハンセン病に対する社会の差別・偏見の目を避けるため、あるいは療養所が独占していたプロミン等による治療を受けるために、隔離施設への入所を余儀なくされるという構造がここに確立する。ある時期から実力行使による強制隔離がなくなったことは、この構造が完成したことを示すものであっても、決して絶対隔離絶滅政策が変更されたことを意味するものではない。医療面、社会面、心理面での強制によって、患者に入所を余儀なくさせ、いったん入所してしまうと、時間の経過とともに社会との溝が深まり、社会復帰施策がないこともあいまって、退所できなくなるという絶対隔離絶滅システムが、強制力の発動を待つまでもなく、自動的に機能し続ける域に達したのである。

 平成八年に新法が廃止された当時、いわゆる「ハンセン病患者」の九〇パーセントが療養所に在園していたこと、そしてそのほとんどは法廃止後も社会復帰を遂げることなく、療養所の中でその一生を終えようとしていることは、約九〇年間にわたって発展し、継続され、完成した絶対隔離絶滅政策が、いまや最終段階に入ったことを示しているのである。

 3 以上のとおり、絶対隔離絶滅政策は、ハンセン病患者の根絶を目標として、戦前、戦後を通じて、一体のものとして遂行・維持されてきた。

 三 被告の開放政策論について

 1 被告の開放政策論の構造と特徴

 被告は、遅くとも昭和四七年には厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根拠となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ形式的に右の条文が残存していたことが明らかであると主張する。

 その具体的内容として挙げられているのは、①物理的強制力を用いた強制収容は行われていないこと、②入所者の外出は自由であったこと、③軽快退所が認められていたこと、④断種手術等が行われくママなったこと、⑤療養所内での処遇が改善されたこと、⑥外来診療制度が整備されたことなどであり、弾力的運用論 (①ないし④)、処遇改善論 (⑤)、外来診療制度論 (⑥) の三本柱からなる。

 しかしながら、被告は、政策の転換と主張しながら、その開放政策が策定された時期が全く明らかではなく、その具体的内容となる前記①ないし⑥についてもその時期に関する主張はそれぞれ全く個々バラバラであり、その間に 一〇年以上の開きすらある。また、厚生省としての政策であるはずでありながら、「開放政策」なる文言が使用された文書はもとより、開放政策全体の内容を説明し得るような厚生省の文書が全く存在していない。厚生省は、本件訴訟以前に自らの政策を「開放政策」と称したことが全くないだけでなく、「隔離政策」を転換したなどと主張・表明したことすらない。昭和五〇年に発行された「国立療養所史らい編 (《証拠略》) 編注・以下証拠の表示は一部を除き省略ないし割愛します にも、「わが国のらい対策は、治らい剤の効果が確認された一九五〇年代に至るまで絶対隔離がその基本になっていた。もっともこの基本については現在もなお本質的に改められていない」と記載されている。「開放政策」なるものは、本件訴訟において、国の免責を図るために作り出された机上の空論にすぎない。

 2 弾力的運用論批判

 ㈠ 物理的強制力を用いた強制収容の有無とその意義について

 被告は、ある時期から物理的強制入所がないと主張している。

 しかしながら、物理的な強制力を用いた場合でなければ強制入所と評価されないわけではない。被告が作出・助長したハンセン病に対する差別・偏見による社会的心理的強制や、ハンセン病の治療薬の入手すら療養所以外では極めて困難であるという治療面での事実上の強制による入所もまた、強制入所と評価すべきものである。このことは、昭和五二年当時の厚生省大臣官房であった熊代昭彦氏のジュリストにおける発言や原告一一番の入所に至る経緯、見直し検討会における吉永みち子委員の発言からも明らかである。

 物理的強制入所が減少あるいは消滅したとしても、そのことは物理的強制力を用いる必要がなくなったことを意味するにすぎず、隔離政策の変更を意味するものではない。

 ㈡ 外出制限の緩和について

 被告は、外出制限について、遅くとも昭和五三年以前から新法一五条の許可事由は事実上外出許可の要件ではなくなっていたと主張し、外出の際に同条に定める許可を受けるとしても、その要件は緩和され、ないに等しくなっていたのみならず、右許可を受けなかったことを理由に刑罰その他の不利益処分が科せられることは一切なくなったと説明する。

 しかしながら、昭和三三年の「脱走者一斉検束」による外出制限違反の処罰例があり、これが、在園者に対するみせしめとなったこと、昭和三五年一月に発生した全生園殺人事件に関する新聞報道において、厚生省担当者が外出制限を厳重にする旨のコメントをしていることなどからすれば、入所者は、無断外出に対しては園当局がその気になればいつでも処罰し得ることを思い知らされ、その結果として、新法廃止まで外出制限が在園者の権利を制限し続けていたのである。

 また、帰るべき所が療養所以外にない在園者にとって、療養所周辺への短時間の外出が事実上認められたとしても、隔離からの開放を意味することにはならない。

 したがって、開放政策の根拠となるような外出制限の緩和があったとはいえない。

 ㈢ 軽快退所者の存在について

 被告は、軽快退所者が累計で約三〇〇〇人に及ぶ等と主張し、これを開放政策への転換の根拠の一つとしている。

 しかしながら、軽快退所者の割合は、在園者数の一ないし一〇パーセントにすぎず、軽快退所がごく一部の例外的な事象なのであるから、これを開放政策の根拠とすることはできない。

 ㈣ 優生手術の不実施について

 被告は、昭和四〇年代の終わり以降は、優生手術は行われていないと主張する。

 しかしながら、昭和四〇年には、在園者の平均年齢は四九歳に達しており、しかも、療養所内において、子供を産むことが許されないことは在園者に周知徹底され、だれ一人としてこれに背くことが許されない状況だったのであり、これまた政策の変更を意味するものではない。

 ㈤ 以上のとおりであって、被告が主張するような弾力的運用は、現実には存在しなかったというべきである。

 3 処遇改善批判

 被告は、昭和四七年以降、療養所内の処遇改善に努力してきたとし、そのことを理由に新法は死文化したのであり、人権侵害はなかったと主張する。

 しかしながら、処遇改善は、隔離政策の転換を意味するどころか、多剤併用療法の確立した時点以降においても隔離政策を継続する役割を果たしたというべきものであって、政策変更を裏付けるものではない。

 4 政策転換の評価基準

 絶対隔離絶滅政策を策定・推進し、この政策遂行によってほとんどのハンセン病患者が隔離され、そのままの状態で社会に戻れない人達が厚生省の隔離施設内に存在しているという状況下で、それまでの政策が誤りであったとして開放政策に転換したというためには、その過ちを率直に認め、被害者に謝罪した上で、それまでの政策遂行によって生じた事態を原状に回復せしめること、すなわち、社会から居場所を奪われ、さらに社会における生活手段を持たないという隔離政策の被害者が、社会に復帰できるような積極的な政策を展開することが必要である。

 しかしながら、少なくとも新法廃止までは、右のような措置は全く取られていないのであるから、政策転換があったと評価することはできない。

 四 絶対隔離絶滅政策の違憲性及び国家賠償法上の違法性

 1 昭和二八年までの違憲性・違法性について

 ハンセン病政策が、患者を隔離するという点において、憲法で保障される人権を制約するものであるところは明らかであるところ、そのような人権を制約する政策が憲法に違反しないというためには、少なくとも①人権制約の目的が合理的であること、②手段が目的達成のための必要最小限度のものであることが必要である。

 ㈠ 根絶目的自体の合理性

 ハンセン病患者に対する絶対隔離絶滅政策は、優生思想を背景とした民族浄化論に基づくものであり、基本的人権の尊重を理念とする日本国憲法の下で、患者の絶滅、社会的抹殺を図るという政策目的に合理性が認められる余地はない。

 ㈡ 手段の違法性

  ⑴ 仮に、絶対隔離絶滅政策がハンセン病の伝染予防という公衆衛生目的のものであると解したとしても、これによる人権の制約は目的の達成のための必要最小限のものでなければならない。

 一般に、公衆衛生政策を採用する場合は、その患者自身の人権と伝染予防の必要性を衡量しながら進めるべきである。そして、伝染予防の必要性に関しては、伝染力の強さ、蔓延状況、致死率等の重篤さによって大きく左右される。

 この点、ハンセン病の伝染力が微弱であることは、戦前から十分認識されていた。また、壮丁らいの年次推移及び大正八年から昭和一〇年までの四回にわたる全国調査の結果からすれば、日本においてハンセン病が蔓延していたという状況はなく、むしろ隔離と無関係に終焉に向かっていた。さらに、重篤性についてみても、ハンセン病は、スルフォン剤登場以前から、死に至るような病ではなかった。

 以上からすれば、伝染予防対策を採るとしても、比較的感染のおそれが高いとされる乳幼児に対する家庭内感染を避けるための措置を取る程度で十分であり、絶対隔離絶滅政策がハンセン病予防という目的に照らして極めて過剰な人権侵害であったことは明らかである。

  ⑵ 絶対隔離絶滅政策は、一体的な性格を有するものであるから、全体として違憲と評価されるべきものであるが、以下、日本国憲法との関係を述べる。

  ⑷ 強制・終生・絶対隔離

 隔離は、憲法二二条一項の保障する居住・移転の自由を侵害するものであり、その隔離が無期限の終生隔離であることにより、いったん隔離政策の対象となった者は家族との絆を断ち切られ、職を奪われ、あるいは教育を受ける機会や一般社会の中で人格形成する機会を奪われる。これらを総合して憲法一三条の幸福追求権の侵害であると解するべきである。