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第三の三2㈠)。これも、厚生省が、外見にハンセン病の痕跡を残す者の退所に極めて消極的であったことを示すものである。宮崎菊池恵楓園長が、左手の指がかすかに曲がっている入所者の社会復帰の申出に対し、「君、その手では社会的に治癒してないから社会復帰は無理だ。」と述べたというのも、当時の療養所の態度をよく現している。証人長尾によれば、実に約八割もの在園者が、何らかの後遺症を持っているとされ、社会の差別・偏見の存在が後遺症を持つ在園者の社会復帰を妨げてきたことを端的に示している。

 2 園名等についママ

 入所者の中には、入所時に園名と呼ばれる異名を付けられた経験を持つ者が少なくない。平成八年に九州の五つの療養所の在園者を対象に実施したアンケートの結果によれば、約四五・六パーセントが園名の使用経験を持ち、約三一・一パーセントが現在でもこれを使用しているという。そして、本件訴訟においても、本名を明らかにすることをためらう原告が多い。

 園名の由来は、必ずしも明らかではないが、家族に差別・偏見を及ぶのを防ぐことのほか、これまでの人生と決別させるというような心理的な意味合いが含まれていたことも想像される。

 園名は、常に療養所から強制的に付けられたものとまではいえないが、このような園名を多くの者が使わざるを得ないこと自体、ハンセン病患者及びその家族に対する極めて強い差別・偏見の存在をうかがわせる。

 由布雅夫菊池恵楓園長は、平成一〇年四月九日の熊本日日新聞において、「(昭和六一年四月に赴任した) 当時恵楓園には約千百人の元ハンセン病の人がいて、らい予防法があり、入所者は古里にも帰れないという事実を初めて知った。(中略)ママ古里に帰れないのは、社会にハンセン病に対する偏見・差別が根強く残っているためであることも初めて知った。」と記述し、また、同月一六日付けの同新聞において、「多くの人が入所と同時に古里とのきずなが途切れている。子供のころ入所した人の多くは古里で死んだことになっている。中には位牌までつくっているところがある。これは自分の家族からハンセン病が出たことを隠すためである。親兄弟から、家族のために死んでほしいと言われた人もいる。子供の将来を考えた上でのこととはいえ自分から離婚して入所した人、『これは君の家の遺伝病だ』と一方的に子供と共に離婚された人もいる。」と記述している。

 五 差別・偏見の現れ

 ここでは、差別・偏見の存在を示す象徴的な出来事のいくつかを取り上げる。

 1 竜田寮児童通学拒否事件

 竜田寮は、菊池恵楓園の入所患者の扶養児童を養育する同園附属の児童福祉施設 (熊本市所在。新法二二条参照) であり、昭和二八年度までここの児童は一般の小学校 (黒髪小学校) への通学が認められていなかったが、宮崎園長の働き掛けもあって、昭和二九年四月からこれが認められるようになった。

 ところが、同月の入学式当日、PTA会長ら一部の保護者が、竜田寮の新一年生四人の通学に反対して、小学校の校門に立ちふさがり、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等と書かれたポスターを貼るなどして、児童らの登校を阻止する挙に出た。

 この問題は、昭和三〇年四月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学させるという形で決着するまで、通学反対派と療養所・入所者側が激しく対立して紛糾した。

 2 「野放しのライ患者」の新聞記事

 昭和三五年一月一一日付けの「野放しのライ患者」の見出しの新聞記事については、前記第三の四2㈣のとおりであるが、この記事には、ハンセン病の伝染・発病に関する医学的知見からかけ離れた偏見の存在がよく現れており、これを読んだ多くの者が抱いたであろう誤解・偏見を考えると、その影響は計り知れない。ただ、この記事は、あくまでも、新法一五条や同条の運用状況が忠実に記載されているのであり、法の建前からすれば、このような記事が現れるのはむしろ当然である。この記事は、新法の外出制限規定の存在が、ハンセン病の伝染に対する一般公衆の恐怖心をあおる結果となった典型例であるということができる。

 3 バスの運行拒否

 長島愛生園の一団体が、昭和四七年四月、バス会社に配車を依頼したところ、一度は了解したバス会社が、配車の三日前になって、組合が消毒等を問題としていることを理由に、配車を断ってきた。

 同様のことは、昭和四五年五月、大島青松園でも起こっている。入所者の団体旅行のため、貸切バスの配車を申し込んだところ、伝染のおそれ等を理由に断られた。このときには、結局、バスの配車を受けられたが、昭和五三年以降は、貸切観光バスの利用はなくなった。

 4 「せいしょう」の職員席・患者席の区別

 昭和四七年五月、大島青松園が保有する船舶「まつかぜ」が進水されたが、その造船に先立って、同園自治体は、従前の職員席・患者席の区別の廃止を申し入れていた。しかし、右区別が廃止されないまま「まつかぜ」が設計され、この区別は、昭和六〇年まで存続した。

 リファンピシンも登場していた昭和四七年にこのような区別を設けなければならない医学的な理由は見いだせない。療養所の職員ですら容易に偏見を払拭できなかったところに、ハンセン病に対する偏見の根深さが現れている。

 5 名護市ゲートボール協会加盟

 沖縄愛楽園のゲートボール協会は、昭和五八年四月以降、数回にわたって、名護市ゲートボール協会への加盟を申し入れたが、同協会から拒否され続け、新法廃止のころにようやく加盟を認められた。

 6 心中事件

 ㈠ 昭和二五年九月一日、熊本県で、ハンセン病患者の父を抱えた息子が、将来を悲観して、父を銃殺した上で、自殺するという事件が起こった。

 ㈡ 昭和二六年一月二九日、山梨県で、ハンセン病患者を抱える家族九人の心中事件が起こった。この事件は、保健所にハンセン病患者発見との報告があり、消毒の準備をしていた矢先の出来事であった。

 ㈢ 昭和五六年一二月ころ、秋田県で、軽い皮膚病をハンセン病と思い込み、二人の子供を絞殺し、自分も自殺を図ったが未遂に終わったという事件が起こった。

 ㈣ 昭和五八年一月、香川県で、自分と娘がハンセン病にかかっていると思いこんだ女性が、娘をガス中毒で死なせ、自分も自殺を図ったが未遂に終わるという事件が起こった。

 プロミン登場後において、このような痛ましい事件が絶えないのは、いかにハンセン病が医学的な意味を超えて恐れられていたかを示すものである。とりわけ右㈢、㈣は、多剤併用療法が登場していたころの事件であり、ハンセン病に関する誤った認識がいかに根深いものであったかを示すとともに、ハンセン病にかかったと思っても、社会的な差別・偏見を恐れて、あるいは、隔離されることを悲観して、気軽に病院や療養所にも行けない実情があることを示すものである。


第三節 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無 (争点一)

第一 厚生省の隔離政策の遂行等について

 一 厚生省は、旧法下の昭和二五年には、ハンセン病患者総数一万一〇九四人のうち八三二五人の患者 (収容率七五・四パーセント) を収容隔離していたが、新法制定後も、これらの患者の隔離を続け、さらに、新患者の収容隔離も続行し、昭和三〇年には最多の一万一〇五七人 (収容率九〇・八六パーセント) のハンセン病患者を隔離し、その後、昭和四五年の九三・六五パーセントをピークに九〇パーセント前後の収容率でハンセン病患者を、全国の療養所に隔離してきたものである。なお、昭和五〇年の在所患者は一万〇一九九人 (収容率八九・八七パーセント) で、平成五年の在所患者は六七二九人 (収容率八九・七九パーセント) である。(別紙五参照)

 ところで、新法六条一項は、勧奨による入所を定めるが、これは同条二項の入所命令、同条三項の直接強制を前提とするものであり、後記第四節第二の一の新法の解釈等からすれば、法的にも任意の入所とは同視し難い面がある。のみならず、新法廃止まで、抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどにより、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており、特に、入院治療が可能であったのは、京都大学だけという医療体制の下で、入院治療を必要とする患者は、事実上療養所に入所せざるを得ず、また、療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていた (前記第二節第三の八1)。さらに、戦前・戦後にまたがるほぼ全患者を対象とす る収容の徹底・強化により、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強され、プロミン登場によりハンセン病が治し得る病気となった後も、新法がハンセン病に対する隔離政策を継続したことによって、ハンセン病に対する差別・偏見が助長、維持され、新法廃止まで根強い差別・偏見が厳然として存在し続けたものであるところ、その中で、ハンセン病患者は、いったんハンセン病であるとの診断を受けると、保健所職員の度重なる勧奨入所により、隣近所の者からハンセン病患者及びその家族が白眼視されるに至るなど、療養所に入所せざるを得ない状況に追い込まれ入所を余儀なくされていったことが認められる。したがって、少なくとも、原告らのうちでも最も入所時期の遅い者 (原告一一番) が入所した昭和四八年ころまでの状況を見る限り、勧奨による入所という形をとっていても、その実態は、患者の任意による入所とは認め難いものであった。(第二節第一の一、同第四)

 また、第二節第二の一〇のとおり、新法六条の「らいを伝染させるおそれがある患者」の解釈についても、ハンセン病と診断されると「伝染させるおそれ」がないと判断される未治療の患者はいないといわれるほど極めて広義に解釈されており、これに対応するように第二節第三の三のとおり、入所者の退所についても、極めて厳格な運用がされており、最も軽快退所者の多かった昭和三五年でも、その年の輊快退所者数二一六人の入所者数一万〇六四五人に対する割合は二パーセントに過ぎず、昭和二六年から平成九年までの各年の退所者の右割合も一パーセント未満の年がほとんどという状況であった (別紙六)。昭和三一年に厚生省が各療養所長に示した唯一の退所基準である「らい患者の退所決定暫定準則」も、その内容は極めて厳格で、しかも入所者にはその当時は周知されておらず、昭和五〇年代以降も、退所の自由について公式に表明されたこともなかった。

 また、新法一五条は、入所患者の外出を厳しく制限し、これに違反すると同法二八条で罰則を課することになっていたが第二節第三の四のとおり、昭和三〇年代までは外出制限について厳格な取扱いもされていた。昭和五〇年代以降は、相当緩やかな運用がされるようになったが、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したこともなかった。

 さらに、優生保護法のらい条項の下で、昭和三〇年代まで優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があり、入所者が療養所内で結婚するためには優生手術に同意をせざるを得ない状況もあった。