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れる」とし、更に「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と記述している。

  ⑶ 日戸修一の見解

 日戸修一は、昭和一四年に東京医事新誌に掲載された論文「癩と遺伝」において、「生長した人間の大部分は、癩といかに密接に接近しやうと大概は未感染に終る。例へば癩療養所に於ける医師、看護婦は未だ嘗て癩に罹患したことはなかったし、癩の家族或は夫婦についても癩に結婚後感染したと思はるやうな例は実に稀である。」、「夫婦感染なぞの率の低さは全く話にならない。五百組の夫婦について高々三―四%に過ぎない。」などとして、ハンセン病の感染ないし発病に免疫や体質が影響を与えている可能性を示唆し、さらに、ダニエルセンらによる人体接種の試みに言及して「いかに癩が感染し難いかといふ歴史にとどまっている。」と記述している。

  ⑷ 小笠原登の見解

 京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登助教授は、昭和九年に発表した論文「癩の極悪性の本質に就て」において、「癩の伝染性が甚だ微弱である事は、我が国の専門家の多くが認めるに至った所である。結核に比すれば比較し得られぬ程に弱いと考へなければならぬ。」と記述している。また、同人の論文「癩に関する三つの迷信」にも、ハンセン病の感染力が微弱である旨の記述がある。さらに、同人は、昭和一〇年の第八回日本癩学会において、「癩の如き微弱な伝染病に於ては、病原体の問題よりも感受性の問題が重大である。予はこの条件の最も主要なものの一として、栄養不良の影響の下に築き上げられた体質を考へて居る。」旨論じた。

 隔離政策をあくまで批判し続けた小笠原登は、昭和一六年の第一五回日本癩学会で徹底的に攻撃されて孤立無援となり、同人のいわゆる佝僂病性体質論も否定された。しかしながら、この学会で小笠原登を攻撃した村田正太も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思っている者はいない」と述べたとされているのであり、感染力が微弱であることまで否定されたとは考えられない。ただ、このころから、隔離を強化する国策の遂行上、感染力の微弱さが強調されなくなったものと考えられる (なお、《証拠略》ママによれば、少なくとも昭和七年の第五回日本癩学会の時点では、ハンセン病にかかりやすい体質が遺伝するという体質遺伝説の支持者が少なくなく、小笠原登を攻撃した野島泰治も、右学会では体質遺伝説を支持していたことがうかがわれる。)。

 ㈡ 戦前の内務省の認識

 戦前の内務省の認識は次のようなところによく現れている。

  ⑴ 窪田静太郎内務省衛生局長の答弁等

 政府委員窪田静太郎 (当時の内務省衛生局長) は、明治四〇年二月二六日、「癩予防ニ関スル件」の貴族院における質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「触接性ノ伝染病ト云フコトニナッテ居リマスガ、乞食ナドガ局部ヲ……患部ヲ暴露シテ居リマス所ヲ通ッタト云フ、其クライノコトデ直グ感染スルト云フモノデハナイ、矢張リ直接若クハ間接ニ其患部ニ触レルト力、或ハ患部ニ触レタ紙キレ……布片テアルト力云フヤウナモノガ、コチラノ体ニ触レルト云フコトニ依ッテ伝染ヲスルコトニナッテ居リマス、唯空気ガ飛ンデ来ルト云フ訳デ無イヤウナ趣ニ承知シテ居リマス、此伝染ノカト云フモノハ直グサウヒドク飛ンデ来テ伝播スルト云フモノデハアリマセヌ、緩慢性ナル趣デアリマスガ、併シ其ハ病気ガ緩慢ダケニ又根柢ガ甚ダ深イ、其点ニ於テハ最モ注意スべキモノデアルト云フヤウニ承知イタシテ居リマス」と述べているのである。

 また、同人は、昭和一一年に発表した論文において、「伝染病には相違ないが、思ふに体質に依って感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない。古来遺伝病と考へられた所以もその辺に存るのであろうと思うた」と記述している。

  ⑵ 赤木朝治内務省衛生局長の答弁

 政府委員赤木朝治 (当時の内務省衛生局長) は、昭和六年二月一四日、貴族院における旧法の質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「此癩菌ト申シマスモノハ非常ニ伝染力カラ申シマスレバ弱イ菌デアルヤウデアリマス、従ッテ癩菌ニ接触シタカラト言ッテ、多クノ場合必ズシモ発病スルト云フ訳デハナイノデアリマス、例へバ夫婦ガアリマシテ、一方ガ癩患者デアルニモ拘ハラズ、其配偶者ハ長イ間一緒ニ居ッテ罹ラナイ、斯ウ云フモノモアルヤウデアリマス、(中略)ママ殆ドソコニナカッタモノガポツント出テ来ル、斯ウ云フコトガアルノデアリマス、ソレ等モ矢張リ癩ニ罹リ易イ体質ヲ持ッテ居ル者ガ、何等カノ機会ニ於テ癩菌ニ接触シタト、斯ウ云フコトデナケレバ理論ガ立タナイヤウデアリマス」と述べているのである。

 右答弁の内容は、感染と発病とを区別していないとはいえ、現在の疫学的知見とかなり近いものであると評価できる。

  ⑶ 癩の根絶策

 内務省衛生局が昭和五年一〇月に発表した「癩の根絶策」については、後記第二節第一の八のとおりであるが、これにも「癩菌の感染力は弱く」と記載されている。

 ㈢ 戦後の医学書等

  ⑴ 日本皮膚科全書 (昭和二九年発行)

 この書籍は、「癩の伝染は他の伝染病に比して遙かに弱く、而も個々の場合で非常に違う。幼児期の長期に亘る密接な接触が感染の最好条件となる。併し比較的短期の一寸した接触で感染することもあり得る。」、「重症者と長期に亘り同居しながら感染しなかった例は数多く知られ」、「接触が最密である夫婦間の感染が存外少いのも衆知の事である。」としている。また、「貧困で不衛生な雑居生活が癩の伝播に好都合なのはハンセン以来指摘された処で」、「宮崎、高島は今次の太平洋戦争と癩発生との関係を論じ、殊に宮崎は潜伏又はそのままの状態で発病迄に至らなかったかも知れない状態の人が戦争と云う困難な状況下に遂に発病に至ったと断じ」ているとしている。さらに、ハンセン病に「何等か罹患し易い素質の存在が考えられる」とし、遺伝的素因の存在を肯定する国内外の見解を多数紹介している。なお、ハワイのナウル島などにおける大流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」例として紹介している。

  ⑵ 細菌学各論I (昭和三〇年発行)

 この書籍は、癩菌の培養、動物実験、人体接種試験がいずれも成功の域に達していないことを指摘し、「本菌は体外にては抵抗力の極めて微弱なものであ」るとしている。ただ、隔離については、「癩は癩者を中心として起る。それ故その撲滅は隔離に惹くはない。それはノルウェーで既に実験済みである。」と簡単に結論付けている。

  ⑶ 内科書中巻 (昭和三一年改訂第二四版発行)

 この書籍は、「昆虫あるいは器具等の媒介によることは極めて少い。(中略)ママ本病の感染には本病患者と永く共棲することが最も必要な条件である。貧窮・不潔、その他の非衛生的生活は、その誘因となる。」、「一般の衛生的規則を厳重に施行すれば、本病の伝染は余り恐るるに足らない。これは医師並びに看護婦の感染例がまれなことから見ても明らかである。本病患者の小児は出産と共に母から隔離しなければならない。本病患者は初期の者でも、直ちに癩病院に隔離して適当に治療することが最も必要である。」としている。

 なお。現代内科学大系感染症Ⅱ (昭和三四年発行) の書籍のハンセン病予防についての記述は、右内科書中巻の「一般の衛生的規則を」以下の記述とほとんど同じである。

  ⑷ らい医学の手引き (昭和四五年発行、当時の長島愛生園長高島重孝監修)

 この書籍は、「現在までに報告されたらい菌の人体接種実験は、その大半が陰性であり、日本の六〇年に及ぶ歴史をもつ各地のらい療養所から、職員が感染して発病したという症例はほとんどないことをみても、らい患者との単なる直接間接の接触による発病はきわめて稀であって、らいの伝染発病力は―少なくとも成人に対しては―一般に考えられているほど強くはない。」としている。

 また、「一九〇〇年から三〇年間に患者総数は約三分の一に減少していた」とし、「曰本のらいに対する絶対隔離政策は、一九三一年のらい予防法改正と共に行われたが (中略)ママ絶対隔離政策はまさにナンセンスであり、らい患者の減少にあずかって力があったのは、文化的生活水準の向上ということになろう。(中略)ママ①らいは不治でなく、②変形は単なる後遺症に過ぎず、③病型によっては伝染の恐れが全くないばかりか、④乳幼児期に感染しないかぎり発病の可能性はきわめて少ないことが明らかな現在では、らい予防法に旧態依然としてうたわれている隔離が、問題視されるのも当然である。」としている。

 いずれも、現在の知見とほとんど遜色のない的確な指摘というべきである。

  ㈤ 厚生大臣山縣勝見の答弁

 厚生大臣山縣勝見は、昭和二八年七月二日、衆議院厚生委員会における新法の質疑において、入所勧奨の説明として、「患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活、緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし、まず勧奨により本人に納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし」と答弁している。

 5 以上のとおりであって、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であることは、国内外を問わず、明治三〇年の第一回国際らい会議以降一貫して医学的に認められてきたところであり、戦前の内務省もその認識を有していたことが優に認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

 被告も、この点を積極的に争うものではないと考えられるが、以下、被告が指摘する点について若干の検討を加える。

 ㈠ 被告は、幼児期における濃厚接触による感染の可能性が高いとし、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後とするいくつかの報告を指摘する。

 確かに、家庭内接触児童の発病率が夫婦間の場合などと比べて高いとする報告があることは否定できない。しかしながら、家庭内接触児童の発病率の報告には、前記第二の三2 (別紙二1) のとおり、様々なものがあり、その中で被告の指摘するものは他と比べて突出して高いものばかりであって、新法制定までの報告に限定してみても、一〇パーセント代ママあるいはそれ以下のものも少なからず見られる。新法制定当時において、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後ととらえる見解が一般的であったかどうかについては、大いに疑問が残るというべきである。

 ㈡ また、被告は、成人への感染や夫婦間の感染も恐れられていたとして、感染例をるる指摘する。

 しかしながら、感染症である以上、感染例があるのは当然である。むしろ、疫学的には、最もらい菌による感染の危険にさらされているはずの患者の配偶者の発病率が極めて低いことや、同様の危険にさらされているはずの療養所の職員の発病例が我が国の療養所の長い歴史の中でもほとんど出ていないことに着目されるのが通常であって、被告の右指摘が反論として特段の意味を持つものと認めることはできない。

 ㈢ さらに、被告は、新法制定当時の我が国の社会経済状況の下では、ナウル島などでの流行が我が国においては絶対に起こらないとはだれも考えていなかったと主張する。

 しかしながら、ナウル島で起こったような流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」であるとか、「我々にはかかる爆発的流行は珍しいのであるが限られた島嶼其他癩処女地にはこれを見る事がある」などと説明されているのであり、ハンセン病が流入して千年以上という歴史を持ち、一定の有病率を保ちながらも一度も大流行が記録されておらず、二〇世紀に入ってからは患者の顕