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延攻玉匠 Hofjuwelier 等の女會長某と席を同うす。余も此に至りて同く飮む。

三十日。石黑氏の書至る。日本にて歐風流行の事を述ぶ。婦人の服は善く云へば孔雀、惡く言へば洋墨壺に似たりといふ語あり。

三十一日。頃日は寒溫遷移の時にて一周に一度程つゝ雪ふることあり。されど積ることは絕て無し。

二月二日。家書至る。封中阿篤阿君阿潤の寫影に接す。

十三日。拜焉國軍醫總監の夫人アンナ Anna von Lotzbeck の招に應じ、小兒假面舞會 Kindermaskenfest に赴く。法皇公使 Nuncius と會塲に相見る。此人は方今政治社會に名高し。此改年の頃より歐洲大陸の人心は恟々として、開戰の布吿あるを今日か明日かと待つさまなりき。東はブルガリヤ Bulgarien の事に關して、魯澳の間穩ならず、西は佛國兵備を盛にして陸軍卿ブウランジエエ Boulanger の徒陽に平和を說き、暗に獨乙の隙を窺ふ。されば獨乙の國會はビスマルク Bismarck を主として、平時兵員を增す議を唱へしに、反政府黨の領袖たるヰンドホルスト Windthorst は認めて必要ならずと做し、爭論數日に亘り、遂に反政府黨多數を占めたり。是に於いてビスマルクは維廉帝の詔を議堂に朗誦して國會を解散せり。是れ一月十四日のことなり。此時に當りて、羅馬法皇はビスマルクと氣息相通ずる人なる故、僧官ヤコビイニイ Cardinal Jacobini をして書を作りて在民顯府の公使ピエトロ Pietro に寄せしめ、加特力敎徒のビスマルクの議に從はんことを謀れり。余の相見たるは此書を受けたる公使なり。要するに法皇はビスマルク手中の一木偶に過ぎず。而して公使は此木偶に役せらるゝ木偶とやいふべき。

十九日。軍人舞踏會 Veteranenball に西端廳 Westendhalle に赴く。

二十日。夫人アンナを訪ふ。

二十六日。加藤照麿の維納に之くを送りて停車塲に至る。人々その去るを惜しめり。