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二十四日。所謂「ヨハンニス」日 Johannistag にて古來の祭日なり。此祭は未だ基督敎の行はれざる前より有り。昔は永晝短夜の極度に至れる日に此祭を行ひ、所謂「ヨハンニス」火 Johannisfeuer を點したり。火を點する者は猶晝日の永からんを祈る意にして、平相國が沒日を招きしと同日の談なり。點火の習は猶ミユンヘン Muenchen に殘れりと。現今此地にては「ヨハンニス」日を祖先を祭る日とす。猶盂蘭盆の如し。闔府の士女其塋域に集り、花もて編める環を墓上に縣く。亦美觀なり。新聞紙「ヨハンニス」日の事を記して云く。獨逸國中此日を祭る地多し。然れども何の處にか又「ヨハンニス」谷 Johannisthal と「ヨハンニス」人 Johannismaennchen あらんと。谷は上にも云へるが如く、我寓居に近き一區なり。古府を開くとき、砂を掘りし跡なるを、千八百三十二年始めて區畫し、苑囿と爲したり。然れども府の人口漸く殖え、谷の面積漸く隘きは、東京の忍ぶが池と一般なり。此日には樂を谷に奏し、遊人甚多し。苑囿は總じて夏日の遊を主とする故、此頃は谷中綺麗の塵のみなり。「ヨハンニス」人とは谷に近き病院 Johannishospital の庭にて、昔よりの習に依り此日に開帳する除災の守護神なり。

二十七日。夜ゴオリスなるブリユツヘル苑 Bluecher-Garden に至る。大學の助手兩シユミツト Arnold Schmidt, Heinrich Schmidt 及ハイドレン Heidlen の來責を去るを送る筵なり。諸生輩狂詩を作り、印刷して來會の人々に頒ち、同音に之を歌はしむ。

Denn Dr. Schmidt ergriffes,
Das Scepter der Percussion;
Er schwang es kuehnen Muthes
Und lehrte uns den Ton.

と云ひ、また

Ich mein' Dr. Heidlen, den wackren,
Den Alles so ehrt und so liebt,
Die Waerterin und die Patienten
Und was es noch sonst etwa gibt.

と云ふが如し。葢シユミツト Schmidt は診斷學を敎授したるを以て、其事を演べ、ハイドレン Heidlen は美男子なるを以て、此語を爲して之に戲るゝなり。吟歌の間は樂を奏す。軍樂隊を雇へるなり。諸生輩麥酒を喫す。其量驚く可し。獨逸の麥酒杯は殆ど半「リイテル」を容