Page:Doitsu nikki(diary in Germany).pdf/105

このページは検証済みです

と名くる大逵の角に在りて、大首座街 Grosse Praesidenten-Strasse 第十號の第三層屋なり。室內裝飾頗美なるに、出窓 Balkon の下には大鐵盤を置き、中に花卉を植ゑ、蔦蘿之に纏ふ。書架は廉價なる故購ひ求めたる私有物なり。新に獲たる奇書を插列し、時に意に適する簡册を抽いて之を讀む。以て無聊を醫するに至る。頃日大抵六時三十分に起ち、盥漱換衣し、七時に咖啡麵包を喫し、七時三十分に門前の鐵道馬車に乘れば、八時前に佛特力街 Friedrichstrasse なる普魯士國近衞步兵第二聯隊第一及第二大隊の營に達することを得るなり。此處にて所謂給養班勤務 Revierdienst を果し、轉じてカルヽ街 Karl-strasse なる第三大隊の營に赴き、事を操ること前の如し。班務は我邦軍隊の朝診斷と稱へ來れる者に匹當す。是よりトヨツプフエル客舘に午餐す。石君とは此舘にて每日相見ることを得るなり。其他田口大學敎授も此に午餐す。午後は時々聯隊醫官キヨオレル Rudolph Koehler の國會岸 Reichstagsufer の居を訪ひて命令を受くることあり。班務は日曜日、祭日と雖、休むことなし。近著一篇 (Ueber pathogene Bacterien im Canalwasser) あり。コツホ師これをその雜誌 (Zeitschrift fuer Hygiene) に揭載せしむ。

五月十四日。南方より還れる名士ヰルヒヨオ Virchow を其シエルリング街 Schellingstrasse (10) の居に訪ひ、自著日本家屋論を携へて閱を請ふ。ヰルヒヨオの還るや、國會の政友は定額規則 Etatsgesetz の闕の爲に其演說を求め、病王は英醫 Mackenzie の治を主るありと雖、猶其解屍學上の審査に待つことあり。斯くまで引く手許多なる中に、大學の講筵をば、卽時に皆開けり。是れ世の驚嘆する所なり。今白面の一書生來りて拙陋なる著作の閱を請へるに、ヰルヒヨオ乃ち喜び迓へて數刻の閑談あり、遂に稿本を留めしめ、一閱の後人類學會 Anthropologische Gesellschaft に送り、印刷せしめんと約す。實に多々益〻辨ずと謂ふ可きなり。語次三浦の新著を寄する事に及び、其篤學を稱讚す。余又曾て譯する所の雞林醫事の事を擧げて氏の意見を訽ふ。曰く。宜しく之を伯林民學舘 Ethnologisches Museum の長バスチヤン Bastian の許に齎し、去就を定むべしと。翌日舘に至り、バスチヤンを見る。東洋人種源流及宗敎の事を談ず。雞林醫事の譯稿を留めて還る。