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十九目。田口余に胎るに大學紀要中に印せられたる徽毒菌論一篇を以てす。シヤイベ舅姑をマグデブルク Magdeburg に訪ふ。來りて別を吿ぐ。

二十日。北里來る。江口の毫も學問の精神なく、言論陋甚しきを說く。

二十三日。新調の軍服至る。

二十四日。祭夕なり。江口、片山等と石君の家に會す。日本料理の饗あり。

二十五日。夜隈川を訪ふ。頃日自体試驗に從事し、單に蔬食を食ふ。勇敢愛す可し。

二十六日。大和會にて新任の公使西園寺公望を迎へ、姉小路の鄕に歸るを送る。

二十七日。夜ミユルレルを訪ふ。

二十八日。公使宴を張りて同邦人を招く。余も亦與る。乃木少將の祝辞嚅々解す可らず。石君雄辯坐人を驚かす。大意謂ふ。大和會にて橫山氏の公使に對して陳べたる語中、在歐洲の東洋公使は事務少し、宣く書生を輔助することを務むべし云々。然れども魯境の鐵路一たび功を竣へなば、東洋と西洋と何ぞ交際の密ならざることを憂へん。公使他年の多事想見すべし。余は公使の其多事なるが中に閑を偸みて書生を輔助せられんことを望むことを得るのみ。公使答辞あり。唯ゞ才鈍く任重きを以て夙夜憂慮すとの意なり。

三十日。石君を訪ふ。

三十一日。友侶と除夜の宴を開く。

明治二十一年一月一日。石君及谷口と車を傭ひ、賀正の禮に諸家に赴く。

二日。大和會の新年祭なり。獨逸語の演說を爲す。全權公使西園寺公望杯を擧げて來りて曰く。外邦の語に通曉すること此域に至るは敬服に堪へず。