Page:DoctrinaChristum-1600-Casanatense-TōyōBunko-1993.djvu/12

このページは検証済みです

そくをもてきりしたんにあたへ玉ふべきごしやうにあたるほどの事也。此ゑすぺらんさなくんばなんぎにあふべきとき、たのむところなしとちからをおとす事もあるべし。これ又あにまの大きなるさはり也。さてつとめをこなふべき事とはかりだでといふ大切の善にあたる事なり。これらの儀をこゝろえざれば、Dの御おきてをたびそむく事あるべし。故に此三の善はきりしたんの為にもつぱらなる儀なれば、がくしやと名を得られし善人これらにつゐてあまたのきやうをかきをき玉ふ者也。いまそのうちよりかんようなるところをえらびとりてはんにひらき、まよひをてらすかゞみとなす者也。しかればきりしたんに後生のもつぱらなる事ををしへん為にこんぱにやすぺりよるの命をうけて此小経をあみたてなづけてどちりいな きりしたんといふ。これすなはちきりしたんのをしへといふ心なり。上下ばんみんにたやすく此むねをしらしめんがためにこと葉はぞくのみゝにちかく、儀はDのたかきことはりをあらはす者也。此ことはりをすみやかにわきまへんが為に師弟子のもんだうとなしてしめす者也。これ一さいのきりしたんのちゑのまなこをあきらむるをしへなれば、たれしもならひわきまへしつて、まよひのやみをのがれ、まことのみちにもとづくべし。