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霎時にして暗雲晴れ天地は一掃された如く開明となったので、武夫等は大に生気を得、軍を進ませると、南風激しく起つて敵の射り出す矢は悉く吹き戻されたと記す位、味方は斯くて益々勢ひを得攻め進んで、遂に大捷を納めた。是れ翌る萬平三年正月三日の事である。すると或る月明の夜一人の童子が来て良文を誘ふのて、其跡について行くと童子は武甲山の邊りに行きかき消す如くに姿を無くして了つたので、良文は愈々不思議に思ひ、臣等と共に一心に祈願をこめた處、夢にお告げがあつて「吾れは汝が未だ母の胎内に在し時、母来つて詣で出生する子は何卒男子なるよう、且つ其男子には行く名を為成さしめたしと願ひたるにより吾れ汝を助く」と宣つた由、其處で良文は愈々崇敬し、再び臣等と共に祈願して、如何なる御佛かと御伺ひをしたら、「吾れは群馬郡花園村七星山息災寺に在る七佛(天笠毘首羯摩天の作)の一なる寅童子なり」と宣旨したのて良文等は相列って息災寺に赴き参詣し、常時を三年間其地に止め守護を致させ、自らは秩父に歸り軍に臨むに際しては、遥かに息災寺の方に向つて祈願を上げるに必ず利があったと云ふ。而して其後良文は居城の地に尊體を移すに付て、花園村息災寺は花園院帝の勧請で建立した寺故、致底容易に寅童子の尊體丈を移す事は出来ぬので、常時をして童子に宣旨を請はしめると、堂の扉は自然に開いたので常時は畏こみ、御尊體を背負つて私かに息災寺を落ちて良文の許に赴き、後武蔵の藤田、秩父の大宮及び鎌倉等に移し大治元年良父の嫡孫忠常の世に一度び千葉に移したが、兎に角花園村から私かに持つて来た物 なのて、寅童子としては祀れぬのて、妙見堂と稱へて其中へ寅童子を祀る事にした。後上総の大椎を経て千葉の地に安置する事になつた(目下上総にも其の移しあり)而して長保二年覺等大僧正は別當を立てゝ妙見寺と名付けた、是れ