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の句を遺してゐる。其衰亡以て察するに餘りあるては無いか、然るに世は明治維新の王政復古となり、明治四年七月廃藩置縣と共に大小區の制布かるゝや、當時の千葉宿は第十一大區五小區に属し、其取扱所を此處に置かるゝに於て、六年六月印旛、木更津の二縣を廢し、始めて此地に縣廳を移されて千葉町と稱するに至つてかとら云ふもの、諸官衛、軍管、學校等の比處に設けらるゝもの又従つて多く、数多の商売は軒を並べて再び昔の繁栄に返り、今では戸数即に五千餘戸、人日参萬餘に昇り、百般の施設整備し、四十四年五月には縣共進會を千葉町に開き、新築縣廳舎内等に、縣下の生産品を陳列するに至り、當町の発展史上一層の光彩を添ふるを得たのは大に嘉すべきてあつて、此上の冀望は一日も早く市制の布かるゝに至らん事である。

神社佛閣

(一)神社

△千葉神社(妙見社) 千葉町本町通の端れに石の華表が高く立ち、朱塗の山門奥床しく見ゆる社がある。是れ即ち縣社千葉神社てある。今本社の沿革に就き千葉集等の書に現れてゐる物を参照し左に少しく是れを記せば
在昔承平年間平の将門が叛旗を翻へした時、常陸大椽國香は是を打たんとして敗闘に歸し、承平二年十二月の末つ方平良文出でゝ戦つた處、是れ又大に敗れて粟飯原文次郎常時等の七騎と共に積雪深き上州の山中に遁れた。茲に七騎の強者は死を決し、染谷川に旗を揚げ陣を布いた處、味方四方から参集して漸く一隊を爲した、時に俄然迅雷響くと共に乾坤爲めに晦冥となったと思ふや否、