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意を用いたり、それゆゑ世間浮華の人に、多く交る事を厭ひたり、〈此學開べき天助の一ツには、良澤といふ人天性多病と唱へ、此頃よりは常に閉戶して外へも出ず、又漫りに人にも交らず、たゞ此業を以て樂みとし日を消し居れり、其君昌鹿公は、其素志の情合をよく知召し、彼は元來異人なりとて、深く咎もし給はず、然れども本務に怠りがちなりければ、勤方疎漫なりと上へ吿奉りし人もありしに、公の曰く、日々の治業をつとめるも勤めなり、又其業のためをなし、終には天下後世生民の有益たる事を爲んとするも、取りも直さず其業を勤るなり、彼は欲する所ありと見ゆれば、其このむ所に任せ置くべしとて、一向に打捨さし置れたり、すでに其前後ポイセン(人名、)プラクテーキ抔いへる內科書を求められ、其紙端に御印章押し給ひて與へ給ひし事もあり、元來其號を樂山と呼びしが、高年の後自ら蘭化と稱せり、これは昔し君侯より腸りし名なりと、これは君侯常に、良澤は阿蘭陀人の化物なりと、御戯れにの給ひしより出たり、其寵遇かくのごとき事にてありたり、これ故良澤心のまゝに、其學の修行出來たる事なり、扨淨華の輩雷同して從事せしも多かれども、創業の迂遠なるに倦て、廢するもの少からざりしに、此先生生涯一日のごとく、確乎として動かざりしゆゑ、其中には今の如く其業を遂げしもあることゝ思はるゝなり、これ全く此の事開くるの時に遭ひしゆゑにや、〉又中川淳庵は兼て物產の學を好める故、何とぞ此業を勤め、海外物產をも知り明らめたき事を欲せり、〈亦傍ら奇器巧技の事を嗜み、自ら工夫を凝して新製せるも少からず、○和蘭局方を譯し掛りしに、業を卒へず、天明の初年膈症を患て千古の人となれり、〉桂川君は、さしてこれといふ目當とては見えねども、前にもいへる家柄なれば、只何となく此事をこのみ給ひ、齡は若し氣根は强し、會每に來り給ひて、此擧に加り給へり、翁はこれらとは大に違ひ、始て觀臟し和蘭圖に徵して千古の差あるに驚き、いかにも先此一事を早くあきらめ、治療の用を助けたく、又世醫法術發明の間にも、用立つやうになしたき志のみなりければ、何とぞ一日も早く速に、此一部見るべきものとなしなんと心掛け、一書の譯をし、其事成らば望足りぬと心を決し思を興せしに依て、深く彼諸言を覺え、他事を爲すの望みはなかりしなり、五色の糸の亂れしは皆美なるものなれども、赤とか黃なるとか一色に決し、餘は皆きり棄る心にて思ひ立しなり、其節思慮するに、應神帝の御時百濟の王仁、初て漢字を傳へ書籍を持渡りてより、代々の天子學生を異朝へ遣はされ、彼書を學ばせ給ひ、數千歲の今に至りて、始めて漢人にも恥ざる漢學出來る程になりたるなり、今首めて唱へ出せるの業、何として俄に事整ふて成就すべきの道理なし、只人身形體の一事、千載所說の違たる所を世に示し、何とぞ其大體を知らせたく思ひし迄にて、他に望む所なしと一決し、右にもいへる如く、一日會して解せし所を、其夜宿に歸りて直に翻譯し記しため置たるなり、同社の人々翁が性急なるを時々笑ひしゆゑ、翁答へけるは、凡そ丈夫は草木と共に朽べき者ならず、かたは身健かに