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時の創業不可思議にも、凡そ醫道の大經大本たる身體內景の書、其新譯の起始となりしは、不用意を以て得る所にして、實に天意とやいふべし、

○過ぎこしかたを顧るに、未だ新書の卒業に至らざるの前に、斯の如く勉勵すること兩三年も過ぎしに、漸々其事體も辨ずるやうになるに隨ひ、次第に蔗を噉ふが如くにて、其甘味に喰ひつき、これにて千古の誤も解け、其筋たしかに辨へ得し事に至るの樂しく、會集の期日は、前日より夜の明るを待兼、兒女子の祭り見にゆくの心地せり、扨都下は浮華の風俗なれば、他の人もこれを聞傳へ雷同して、社中へ入來りしものもありたり、其時の人々を思ふに、遂るも遂ざるも、今は皆鬼錄上の人のみ多し、嶺春泰、烏山松圓といへる男などは、頗る出精せしが今は則ち亡し、同僚淳庵なども新書上木の後なりけれども、五十に滿たずして世を早うせり、其ころ往來せし者にて今に生殘りしは、翁よりははるか歲下の人なれども、弘前の醫官桐山正哲などなり、又其頃此業の着實なるを知れるものは格別、たえて知らざるものは、大に怪しみ疑ふもの多かりき、扨集り來りたる者の內にも、其業のはかしからず、それと突き留めもなき面倒なる事ゆゑ、遂に精力盡きはて、又は今日の生計に逐るゝ人は、其しるし見えざるに倦み、且は已むを得ず中道にして廢するといへる族も多かりき、又は偶々厚かりし者も、多病にして事ならず、早世せしも數多ありたり、最初より會合ありし桂川甫周君は、天性穎敏逸群の才にてありしゆゑ、彼文辭章句を領解し給ふ事も萬端人より早く、未だ弱齡とは申、社中にても末賴母敷芳しとて賞嘆したりき、尤其家代々阿蘭陀流外科の官醫なる上、其父甫三君は靑木先生より、アべセ二十五字をはじめ、僅ながらも蘭語なども傳へ給ひしを聞覺え、少しは其下地もありし故にや、退屈のやうすもなく、會ごとには怠りなく出席したまへり、

○同盟の人々、每會右の如く寄つどゐし事、かくありしといへども、各其志す所異なり、是れ實に人の通情なり、先づ第一の盟主とする所の良澤は、奇異の才ゆゑ、此學を以て終身の業となし、盡く彼言語に通達し、其力を以て西洋の事體を知り、彼書籍何にても讀得たきの大望ゆゑ、其目的とする所康煕字典などの如き、ウヲールデンブツクを解了せんといふ事に深く