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と呼れしものとぞ、

○歸路は良澤、淳庵と翁と三人同行なり、途中にて語り合しは、扨々今日の實驗一々驚入、且これまで心付ざるは恥べき事なり、苟も醫の業を以て互に主君々々へ仕る身にして、其術の基本とすべき吾人の形體の眞形をも知らず、今迄一日々々と其業を勤め來りしは、面目もなき次第なり、何とぞ此實驗に本づき、大凡にも身體の眞理を辨へて醫をなさば、此業を以て天地間に身を立るの申譯もあるべしと、共々に嘆息せり、良澤もげに尤千萬同情の事なりと感じぬ、其時翁申せしは、何とぞ此ターヘルアナトミアの一部新たに翻譯せば、身體內外の事分明を得、今日療治の上の大益あるべし、いかにもして通詞等の手をからず、讀み分けたきものなりと語りしに、良澤曰く、予は年來蘭書よみ出し度の宿願あれど、これに志を同うするの良友なし、常々これを慨き思ふのみにて日を送れり、各がた彌々これを欲し給はゞ、我前の年長崎へもゆき、蘭語も少々は記臆し居れり、それを種として共々よみ掛るべしやといひけるを聞、それは先づ喜ばしきことなり、同志に力を戮せ給らば、憤然として志を立て一精出し見申さんと答へたり、良澤これを聞き悅喜斜ならず、然らば善はいそげといへる俗說もあり、直に明日私宅へ會し給へかし、如何やうにも工夫あるべしと深く契約して、其日は各々宿所々々へ別れ歸りたり、

○其翌日良澤が宅に集り、前日のことを語り合ひ、先づ彼ターヘルアナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乘出せしが如く、茫洋として寄べきなく、只あきれにあきれて居たる迄なり、されども良澤は兼てより此事を心に掛け、長崎迄もゆき蘭語幷びに章句語脈の間の事も、少しは聞覺え聞きならひし人といひ、齡も翁などよりは十年の長たりし老輩なれは、これを盟主と定め、先生とも仰ぐ事となしぬ、翁いまだ二十五字さえ習はず、不意に思ひ立し事なれば、漸くに文字を覺え、彼諸言をもならひしことなり、

○扨此書をよみ始るに、如何樣にして筆を立べしと談じ合しに、迚も始より內象の事は知れがたかるべし、此書の最初に仰伏全象の圖あり、是は表部外象の事なり、其名所は皆知れたる事なれば、其圖と說の