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言文をこしたり、兼て同僚小杉玄適といふもの、其以前京師の山脇東洋先生の門に遊び、彼地に在し時、先生の企にて觀臟の事ありしに、此男に從ひ行て親しく視たるに、古人諸說皆空言にて信じがたき事のみなり、上古に九臟と稱せり、今五臟六腑の目を分ちたるは、後人の杜撰なりなんどいへる事の話もありし、其時東洋先生藏志といふ著書をも出し給ひたり、翁其書をも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら觀臟してよと思ひ居たりし、此和蘭解剖の書も、初て手に入し事なれば、照し視て、何れか其實否を試むべしと、喜び一かたならぬ幸の時至れりと、彼處へ罷る心にて殊に飛揚せり、扨斯る幸を得し事を、獨り見るべき事にあらず、朋友の內にも家業に厚き同志の人々へは知らせ遣はし、同じく視て業事の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先同僚中川淳庵を初め、某誰と知らせ遣はせし中かに、良澤へも知らせ越したり、扨良澤は翁よりも齡十ばかりも長じ、我よりは老輩の事にてありし故、相識にこそあれ、常々は往來も稀に、交接うとかりしかど、醫事に志篤きは互ひに知り合たる中なれば、此一擧に漏すべき人にはあらず、先早く申通じたく思ひたれども、さし掛りし事、且つ此夜も蘭人滯留の折なれば、彼客屋にありけるゆゑ夜分にはなりぬ、俄に知らすべき便りもなし、如何せんと存ぜしが、臨時の思付にて、先手紙調へ知れる人の許に立寄り、相謀りて本石町の木戶際に居たりし辻駕の者をやとひ、申遣はせしは、明朝しか事あり、望あらば早天に淺草三谷町出口の茶屋まで御越しあるべし、翁も此處まで罷越し待合すべしと認め、置捨にて歸れと持せ遣しけり、

○其翌朝とく支度整ひ彼所に至りしに、良澤參り合ひ、其餘の朋友も皆々參會し出迎たり、時に良澤一つの蘭書を懷中より出し、披き示して曰く、これは是れターヘルアナトミアといふ和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時、求め得て歸り家藏せしものなりといふ、これを見れば、卽ち翁が此頃手に入りし蘭書と同書同版なり、是れ誠に奇遇なりとて、互ひに手をうちて感ぜり、扨良澤長崎遊學の中、彼地にて習得聞置しとて其書をひらき、これはロングとて肺なり、これはハルトとて心なり、マーグといふは胃なり、ミルトといふは脾なりと指し敎へたり、然れども漢說