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ども、はかしく御合點參らぬなり、其元にも御無用の方然るべしと異見したり、良澤は如何承りしか、翁は性急の生れゆゑ、其說を尤と聞き、その如く面倒なる事をなし遂る氣根はなし、徒に日月を費すは無益なる事と思ひ、敢て學ぶ心はなくして歸りぬ、

○其頃より世人何となく、彼國持渡りのものを奇珍とし、總て其舶來の珍器の類を好み、少しく好事ときこえし人は、多くも少くも取聚て常に愛せざるはなし、殊に故の相良侯當路執政の頃にて、世の中甚だ華美繁華の最中なりしにより、彼舶よりウエールガラス〈天氣驗器、〉テルモメートル〈寒暖驗器、〉ドンドルガラス〈震雷驗器、〉ホクトメートル〈水液輕重清濁驗器、〉ドンクルカームル〈暗室寫眞鏡、〉トーフルランターレン〈現妖鏡、〉ゾンガラス〈觀日玉、〉ルーブル〈呼遠筒、〉といへる類ひ、種々の器物を年々持越し、其餘諸種の時計、千里鏡、ならびに硝子細工物の類、あげて數へがたかりしにより、人々其奇巧に甚だ心を動し、其窮理の微妙なるに感服し、自然と每春拜禮の蘭人在府中は、其客屋に夥しく聚るやうになりたり、何れの年といふことは忘れしが、明和四五年の間なるべし、一とせ甲必丹はヤン・カランス、外科はバブルといふもの來りし事あり、此カランスは博學の人、バブルは外科巧者のよしなり、大通詞吉雄幸左衞門は、專ら此バブルを師としたりと、幸左衞門〈後幸作、號は耕牛と云り、〉外科に巧みなりとて其名高く、西國中國筋の人長崎へ下り、其門に入る者至て多し、此年も蘭人に附添ひ來れり、翁夫等の事を傳へ聞しゆゑ、直に幸左衞門が門に入り其術を學べり、これによりて日々彼客屋へ通ひたり、一日右のバブル、川原元伯といへる醫生の舌疽を診ひて療治し、且刺路の術を施せしを見たり、扨々手に入りたるものなりき、血の飛び出す程を預め考へ、これを受るの器を餘程に引はなし置たるに、飛迸の血てうど其內に入りたりき、是れ江戶にて刺絡せしの始なり、其頃翁年若く元氣は强し、滯留中は怠慢なく客館へ往來せしに、幸左衞門一珍書を出し示せり、是は去年初て持渡りしへーステル〈人名、〉の、シユルゼイン〈外科治術、〉といふ書なりと、我深く懇望して、境樽二十挺を以て交易したりと語れり、これを披き見るに、其書說は一字一行も讀む事能はざれども、其諸圖を見るに、和漢の書とは其趣大に異にして、圖の精妙なるを見ても、心地開くべき趣もあり、よりて暫く其書をかり受け、せめて圖