はせて認め貰ひ歸り、人に誇りて彼書籍も讀分つやうにいひ觸らせしを、翁抔も珍しき事に思ひたり、同藩中川淳庵抔は麴町に町宅してありしが、此男より阿蘭陀文字を初て習ひしなり、
○翁兼て、良澤は和蘭の事に志ありや否は知らず、久しき事にて年月は忘れたり、明和の初年の事なりしか、ある年の春恆例の如く、拜禮として蘭人江戶へ來りし時、良澤翁が宅へ訪ひ來れり、これより何方へ行給ふと問ひしに、今日は蘭人の客屋に參り、通詞に逢ふて和蘭の事を聞き、模樣により蘭語抔も問ひ尋ねんがためなりといへり、翁其頃いまだ年若く客氣甚しく、何事もうつり易き頃なれば、願くは我も同道し給れ、共に尋試みたしと申ければ、いと易き事なりとて、同道して彼客屋に行きたり、其年大通詞は西善三郞と申す者參りたり、良澤引合せにて、しか〴〵のよし申述たるに、善三郞聞てそれは必ず御無用なり、夫は何故となれば、彼辭を習ひて理會するといふは難き事なり、たとへば湯水又酒を吞といふかと問んとするに、最初は手眞似にて問ふより外の仕かたはなし、酒をのむと云ふ事を問んとするに、先づ茶碗にても持添へ、注ぐ眞似をして口につけて、是はと問へば、うなづきてデリンキと敎ゆ、是れ卽ちのむ事なり、扨上戶と下戶とを問ふには、手眞似にて問ふべき仕かたはなし、これは數々吞むと、少々吞にて差別わかるなり、されども多く吞でも酒を好まざる人あり、又少くのみにても好人あり、是は情の上の事なればなすべき樣なし、扨其好き嗜むといふ事は、アーンテレツケンといふなり、我身通詞の家に生れ、幼より其事に馴居ながら、其辭の意何の譯といふ事を知らず、年五十に及んで此度の道中にて、其意を始て解得たり、アーンとは元と向ふといふ、テレツケンとは引事なり、其向ひ引といふは、向ふのものを手前へ引寄るなり、酒好む上戶といふも、向ふの物を手前へ引度思ふなり、卽ち好むの意なり、又故鄕を思ふも斯くいふ、是又故鄕を手元へ引よせ度と思ふ意あればなり、彼言語を更に習ひ得んとするには、箇樣に面倒なるものにして、我輩常に阿蘭陀人に朝夕してすら、容易に調得し難し、中々江戶などに居られて學んと思ひ給ふは不㆑叶事なり夫、故野呂靑木兩君など、御用にて年々此客館へ相越され、一かたならず御出精なれ