按ずるに、此國の南地に、コルンボと稱ずる所あり、其人色黑し、漢にいふ所の崑崙奴、或は是也、ヲヽランド人の說に、凡そ赤道に近き地の人、ことごとく皆クロンボにして、其性慧ならずといふ、其クロンボといふは、コルンボの音の轉ぜしにて、その人色黑きをいふ也、〈此に、黑色をクロシといふ、されど、近俗、人の色黑きを、クロンボといふは、もとこれ番語に出づ、〉
スイヤム、〈シヤム、またはシヤムローともいふ、漢に
按ずるに、本朝慶長年間、其國始て通ず、元和寬永の間、其王しきりに金葉の書を〈我俗に、金札といふもの、これ也、〉奉て、聘問す、今におゐては、たゞ其商舶の來るのみありて、歲々に絕ず、〈慶長之初、我國の人、かしこにゆきて、つゐに其王臣とれるものどもあり、其人、また我國の執政に書聘を通じたりき、それらが子孫、猶今も其國にありといふ、〉
附
占城〈チヤンパといふ、番名いまだ詳ならず、〉
マロカ、〈マラカ、またはマテヤといふ、漢に
按ずるに、本朝慶長十七年二月、ヲヽランド人奉れる書に、當時カステリア人と、マロカに戰ふ事を載たり、さらば、此地もとカステイリア人の據りし所を、ヲヽランド人戰逐ふて、つゐにみづからこゝに據りしとみえたり、カステイリアは、すなはちカステイラ、ポルトガルの與國也、
スマアタラ〈ソモンタラともいふ、漢に、