Page:Arai hakuseki zenshu 4.djvu/804

このページは校正済みです

按ずるに、此國の南地に、コルンボと稱ずる所あり、其人色黑し、漢にいふ所の崑崙奴、或は是也、ヲヽランド人の說に、凡そ赤道に近き地の人、ことごとく皆クロンボにして、其性慧ならずといふ、其クロンボといふは、コルンボの音の轉ぜしにて、その人色黑きをいふ也、〈此に、黑色をクロシといふ、されど、近俗、人の色黑きを、クロンボといふは、もとこれ番語に出づ、〉

スイヤム、〈シヤム、またはシヤムローともいふ、漢に暹羅スエンロと譯す、これ也、〉古の時、暹と、羅斛と、二國あり、大元至正の比、羅斛人、暹を合せて、一國となれり、スイヤム、またはシヤムともいふは、すなはち暹の番音也、其地、南方にありて、氣候熱甚しく、たゞ其冬月に至る時、夜ヤヽ涼し、其人螺髷裸體、絲帨を用て腰を束ね、其產する所の物は、藥物皮角の類也といふ、

按ずるに、本朝慶長年間、其國始て通ず、元和寬永の間、其王しきりに金葉の書を〈我俗に、金札といふもの、これ也、〉奉て、聘問す、今におゐては、たゞ其商舶の來るのみありて、歲々に絕ず、〈慶長之初、我國の人、かしこにゆきて、つゐに其王臣とれるものどもあり、其人、また我國の執政に書聘を通じたりき、それらが子孫、猶今も其國にありといふ、〉

占城〈チヤンパといふ、番名いまだ詳ならず、〉柬埔寨カンポサイ甘孛智カアンベツチ澉浦只カンホツー漢甫寨ハヌポサイ、皆同じ、我俗カボチヤといふ、番名は未詳、〉二國、共に暹羅の東にあり、大泥タニイ〈我俗タニといふ、番名不詳、〉暹羅の南にあり、本朝慶長の初、ともに我國に通ず、たゞ占城は、其王の聘せし事聞へず、柬埔寨の歲聘は、寬永の初におよべり、今はたゞ其商舶の來れるのみなり、〈此等の國は、西人いまだ經ざるの地なる故に、其說を聞かず、されど昔我國に通ぜし所なれば、こゝに附す、〉

マロカ、〈マラカ、またはマテヤといふ、漢に滿剌加マヌラキヤとも、麻剌加マアラキアとも譯して、暹羅に隸して、いまだ國と稱せずといふ、〉スイヤム西南の方、海にのぞめる地にあり、此地もとポルトガル人據る所、今はヲヽランド人に屬すといふ、

按ずるに、本朝慶長十七年二月、ヲヽランド人奉れる書に、當時カステリア人と、マロカに戰ふ事を載たり、さらば、此地もとカステイリア人の據りし所を、ヲヽランド人戰逐ふて、つゐにみづからこゝに據りしとみえたり、カステイリアは、すなはちカステイラ、ポルトガルの與國也、

スマアタラ〈ソモンタラともいふ、漢に、須門那シユイモンナ須文達那シユイモンタナ蘇木都剌スモトラ蘇門塔剌スモンタラ蘇門荅剌スモンタラ沙馬大剌シアマアタラ等と譯し〉