こぼれ糸纚につくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす
雨ふれば泥踏なづむ大津道我に馬ありめさね旅人
風まじり雨ふる寺の犬ふせぎしぶきのぬれにうつるみあかし
ともすれば沈灯火かきかきて苧をうむ窓に霰うつ声
そとの浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月
羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな
雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花
人麻呂の御像のまへに机すゑ灯かかげ御酒そなへおく
設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆく
ことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる
汁食とすすめめぐりてとぼしたる火もきえぬべく人突あたる
戸をあけて還る人々雪しろくたまれりといひてわびわびぞ行
稲荷坂見あぐる朱の大鳥居ゆり動して人のぼり来る
「設け題」「探り題」「あき米櫃」「饅頭を頰ばる」「笑ひかたりて腹をよる」「畳かず狸のものの広さにて」「二郎太郎三郎」など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「人豆を打つ」「涼しさ広き」「窓をうづめてさく薔薇」などいうがごとく、詩または俳句には用うれど、歌にはいまだ用いざる新句法をも用いたるはその見識の凡ならぬを見るべし。「神代のにほひ吐く草の花」といえる歌は彼の神明的理想を現したるものにて、この種の思想が日本の歌人に乏しかりしは論を竢たず。(曙覧の理想も常にこの極処に触れしにあらず)一般に天然に対する歌人の観察は極めて皮相的にして花は「におう」と詠み、月は「清し」と詠み、鳥は「啼く」、とのみ詠むのほか、花のうつくしさ、月の清さ、鳥の啼く声をしみじみと身にしめて感じたる後に詠むということなければ、変化のなきのみか、その景象を明瞭に眼前に浮ばしむることは絶えてあるなし。曙覧の叙景法を見るにしからず。例えば「赤きもみぢに霜ふりて」「霜の上に冬木の影をうす黒くうつして」と詠めるがごとき、「もみぢ」の上に「赤き」という形容語を冠せ、「影」の下に「うす黒き」という形容語を添えて、ことさらに重複せしめたるは、霜の白さを強く現さんとの工夫なり。その成功はともかくも、その著眼の高きことは争うべからず。