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 父の十七年忌に

今も世にいまされざらむよはひにもあらざるものをあはれ親なし

髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし

 母の三十七年忌に

はふ児にてわかれまつりし身のうさはおもだに母を知らぬなりけり

 古書を読みて

真男鹿まおしかの肩焼くうらにうらとひて事あきらめし神代をぞ思ふ

 筑紫人つくしびとのその国へかえるに

程すぎて帰らぬ君と夕占ゆうけとひまつらむ妹にとくゆきて逢へ

 されど女を思うも子を思うも恋い思うとばかり詠む短歌にては、感情の切なるを感ずるほかなければ、いずれにても深き差異あるにあらず。この点におきて『万葉』と曙覧と強いて優劣するを要せず。しこうして客観的歌想に至りては曙覧やや進めり。

 四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述においていちじるしく進歩しこの集の特色を成ししも、以後再び退歩して徳川時代に及ぶ。徳川時代にては俳句まず客観的叙述において空前の進歩をなし、和歌もまたようやくに同じ傾向を現ぜり。されども歌人皆頑陋がんろう褊狭へんきょうにして古習を破るあたわず、古人の用いきたりし普通の材料題目の中にてやや変化を試みしのみ。曙覧、徳川時代の最後に出でて、始めて濶眼かつがんを開き、なるべく多くの新材料、新題目を取りて歌に入れたる達見は、趣味を千年の昔に求めてこれを目睫もくしょうに失したる真淵、景樹を驚かすべく、進取の気ありて進み得ず趦趄ししょ逡巡しゅんじゅんとして姑息こそくに陥りたる諸平もろひら文雄ふみおを圧するに足る。徳川時代の歌人がわずかに客観的趣味を解しながら深くその蘊奥うんおうに入るあたわざりしは、第一に「新言語新材料を入るるべからず」という従来の規定を脱却するあたわざりしにる。曙覧はまずこの第一の門戸を破りて、歌界改革の一歩を進めたり。

〔『日本』 明治三十二年三月三十日〕


 曙覧が客観的景象けいしょうを詠ずるは、新材料を入れたることにおいて、新趣味を捉えしことにおいて、『万葉』より一歩を進めたるとともに、新言語新句法を用いしことにおいて、一般歌人よりは自在に言いこなすことを得たり。

秋田家あきのでんか

蚱蜢いなごまろうるさくいでてとぶ秋のひよりよろこび人豆を打つ

とり詠十二時じゅうにじをよむの内)

夕貌ゆうがおの花しらじらと咲めぐるしず伏屋ふせやに馬洗ひをり

松戸まつのとにて口よりいづるままに(録二)

ふくろふののりすりおけと呼ぶ声にきぬときはなち妹は夜ふかす