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 これを要するに曙覧の歌は『万葉』に実朝に及ばざること遠しといえども、貫之つらゆき以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽せり。新言語を用い新趣向を求めたる彼の卓見は歌学史上特筆して後に伝えざるべからず。彼は歌人として実朝以後ただ一人いちにんなり。真淵、景樹、諸平、文雄輩に比すれば彼は鶏群の孤鶴こかくなり。歌人として彼を賞賛するに千言万語を費すとも過賛にはあらざるべし。しかれども彼の和歌をもってこれを俳句に比せんか。彼はほとんど作家と称せらるるだけの価値をも有せざるべし。彼が新言語を用うるに先だつ百四、五十年前に芭蕉一派の俳人は、彼が用いしよりもはるかに多き新言語を用いたり。彼の歌想は他の歌想に比して進歩したるところありとこそいうべけれ、これを俳句の進歩に比すればいまだその門墻もんしょうをもうかがい得ざるところにあり。俳人の極めて幼稚なるものといえども、趣味の多様なることは曙覧の歌のわずかに新奇ならんとせしがごときに非ず。曙覧をして俳人ならしめば、ほとんどその名だに伝うるあたわざりしなるべし。いわんや彼は全く調子を解せざるをや。しかるにかくのごとき曙覧をも古来有数の歌人として賞せざるべからざる歌界の衰退は、あわれにも気の毒の次第とわざるべからず。余は曙覧を論ずるにあたりて実にその褒貶ほうへんに迷えり。もしそれ曙覧の人品性行に至りては磊々落々らいらいらくらく世間の名利に拘束せられず、正を守り義を取り俯仰ふぎょう天地にじざる、けだし絶無僅有きんゆうの人なり。


この稿を草するなかばにして、曙覧おう令嗣れいし今滋いましげ氏特に草廬そうろたたいて翁の伝記及び随筆等を示さる。って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧りゅうらんに供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。

竹の里人付記

〔『日本』 明治三十二年四月二十三日〕

〔「竹の里人付記」にある「翁の小伝」とは、「歌話」六の中の記述をさすと思われる〕