曙覧は擬古の歌も詠み、新様の歌も詠み、慷慨激烈の歌も詠み、和暢平遠の歌も歌み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎をも詠み、御魚屋八兵衛をも詠み、俠家の雪も詠み、妓院の雪も詠み、蟻も詠み、虱も詠み、背中の胡蝶も詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子も詠む。見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。
世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じ毫も古格旧例に拘泥せざりしは、なかなかに『万葉』の精神を得たるものにして、『古今集』以下の自ら画して小区域に局促たりしと同日に語るべきにあらず。ただ歌全体の調子において曙覧はついに『万葉』に及ばず、実朝に劣りたり。惜むべき彼は完全なる歌人たるあたわざりき。
曙覧の歌の調子につきて例を挙げて論ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。
からになる蝶には大和魂を招きよすべきすべもあらじかし
結句字余りのところ『万葉』を学びたれど勢抜けて一首を結ぶに力弱し。『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌の差あり。
樒つみ鷹すゑ道をかへゆけど見るは一つの野路の月影
この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかに賤しく厭わし。
あないぶせ銚子かけてたく藁のもゆとはなしに煙のみたつ
「あないぶせ」とかように初に置くこと感情の順序に戻りて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべし。下二句の言い様も俗なり。
賤家這入せばめて物ううる畑のめぐりのほほづきの色
この歌は酸漿を主として詠みし歌なれば一、二、三、四の句皆一気呵成的にものせざるべからず。