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詩と歌


明石海人


 詩は熱した感動を、哀傷をそのまゝぶちまけて行つたらよい。勿論客観化するだけの余裕は必要であるが、大体感情の興奮にまかせて筆を進めてゆける。が歌はさうはゆかない。調子に乗つて作るとどうも浮き易い。熱した感情をもう一度冷して徹底的に客観化した上で表現しないとうまくまとまらない。之は形式の差から来てゐるのだらう。定型にはめこむのはそれだけの理智を働らかせる必要があるのだらう。即ち言葉に盛りきれない感興の高潮を調べに代言させようといふのである。そこが短歌のむづかしい処であり又魅力なのであらう。短歌の調べが果してその言葉の不足を補ひ得るかといふ事は問題である。あらゆる場合に完全に補ひ得ると云ふことはどんな天才にとつても不可能であらう。そこに歌に適する題材と適しないものとの差別がでてくる。歌が詩に比して難い所以である。同時に調べによる表現は言葉による表現より茫漠たる処はあるが甘い。之が歌が詩よりも感じの深い所以である。名歌といふものはその調べに出来るだけ多くのものを含ませたものと云つてよいであらう。言葉は理智的であるが調べは直観的である。言葉を駆使することも難いが調べを整へる事は更に数等難い。それはある程度以上は天才的なものであらう。

 調べにできるだけ多くを言はしめて言葉の意味はなるべく単純にしようとするのが斎藤茂吉氏などの行き方である。之はもつとも望ましい事であるがそれに偏すると歌が狭くなる。言葉にも複雑な意味をもたせ調べにも十分物を言はせようとするのが一番中正な道であらうが、われわれはとかく言葉に多くを云はせすぎる。

 そこで調べといふものは何かと云ふと大分茫漠たるものであるが、大体音数律と字感語感とから成つてゐるものであらう。即ち歌の音楽的の要素を主として指したものである。それが言葉の意味と合して、感動内容を十分に表現したものが、よい歌であるが、更に感動内容にも高下があるから感動内容を高いものにしなければならない。ここまで来ると歌は即ち人格だと言ふことになる。感動内容を高尚深遠にするのは即ち人格の修練である。全人的な精進である。歌もこゝまで来れば宗教となる。