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  捜りゆく道は空地にひらけたりこのひろがりの杖にあまるも


 眼が見えなくなつて、始めて杖を突いて出て歩くのは可なりな勇気を要する。人に見られるのが嫌だと云ふよりも、自分自身に対する侘しさに堪え難いものがある。自由自在に出歩いてゐた道を、杖に頼らなければ一歩も歩けないと言ふ、生活能力の低下に対する忌々しさである。

 眼が見えなくなつてからはずつと閉ぢ籠つてゐたが、或日美しい小春日和に誘はれて、始めて杖を突いて出掛た。嘗ては、無雑作に歩き廻つてゐた道である。大体の木石の配置は記憶に残つてゐる。にも拘らず、杖の先でさぐるとだいぶん趣が変つて来る。嘗ては気にも止めなかつた極く僅かな路面の凸凹が、ともすれば身体の平衡を脅す。第一、自分の脚からして頗る不確なもので、まつ直ぐに歩いてゐるつもりでも、何時の間にか横へそれてゐる。狭い道の処はまだよかつたが、十字路のやうになつた一寸した空地へ出ると、杖は忽ち方位を失つてしまつた。

 記憶をたよりにあちらこちらと叩き廻つて見たが、思はぬ処に溝が出来てゐたり、物が置いてあつたりして、くるくる廻つてゐる中に、雨水の溜つてゐたらしいぬかるみに吸はれて、片方の靴が脱げてしまつた。よろめく途端に足袋をよごすまいとして、二三度ちんちんをしてから一本足で立ち直つた時には、脱げた靴のありかは見当さへつかなくなつてゐた。仕方がないので、杖を支へにしばらく片足で佇んでゐた。

 それにしても、網膜にものを映す一生理機能の喪失が、我々の生活能力を如何に局限してしまふ事か。今の私には音さへしなければ、命を狙ふ銃口が目の前に擬せられてゐる事をさへ感じる事が出来ない。肉身の支へを失つた精神力の、唯心論が拠つてもつて人間存在の根源なりとする意識とは、何と言ふ哀れな低能児でしかないことか。

 私は自分の立つてゐる所が空地の〔ど〕の辺に当るのか、視覚を借らずに感得出来ないものかと、全精神を集中して天来の啓示を待つた。が、唯心論を侮蔑した祟りか、識閾に影を落して来る何ものも無い。人間の叡智とは、舞ひ上つて方位を悟る鳩の本能に比して、かくも凡庸なのだ。かの論者を今の私の位置に立たせたら、何と言ふであらう。それとも、彼等はこの空白をも、神秘主義の泥絵具で塗潰してしまふであらうか。

 肉身の機能を抹殺して、理性の外縁に直に人格的な神を凝集させたり、個体の経験が肉身を越えて生存すると説く霊魂不滅論などの感傷には、どうも近づき難いが、さりとて、音波のみしか聴き得ない耳や、光波だけしか見得ない眼の行動半径を飛躍することの余りに少ない唯物弁証法の精悍な認識論にも、安んじてしまふことが出来ない。

 彼等の論理は強靭でもあり精緻でもあるが、立論の根底をなす前提に――前提の設定に――前提を設定することそれ自身に対する懐疑がある。けれど、科学も理論も、前提なしには成り立たないとすれば、かう言ふ見解はすでに知性の限界を超えたものである。が、単なる知性にとどまらず、人間性能の総和によつて、側面から照射されるとき、彼等の論理は、始めて複雑微妙な立体感を現はして来るのであらう。

 例へば、科学が分析し尽すことの出来ない微量の物質に、我々の味覚が反応するやうに、論理の網の目にすくひ残された雰囲気が、知性以外の方向から、(例へば感性の如き) を通して、人生や社会に対する我々の見取図に反映し得るものであり、また、さうなければならない――。

「どうした? やあ、靴が脱げてゐるね。ちよつと待つて……よしよし、それでちやんとはけたよ。何処へ行くね、××寮? それなら、この柵を伝はつて行くがいい。真直ぐな道だから……」

 聞き憶えのある声だが、誰だか思ひ出せない。それにしても、私の全精神をつくして窺ひ知ることの出来なかつた私自身の位置を、彼の肉眼は、至つて簡単に指示して呉れた。それが、飽くなき真実究明の過程を、睡魔のやうにまやかしてしまふニイチェの所謂『隣人の愛』に過ぎないにしても、行きずりのささやかな好意は、いつか私の心を明るくしてゐた。


  天国も地獄も見えぬ日のひかり顱頂にしみて酒よりも〔うま〕