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は痛みして居る中に、視力は次第に衰へ、新聞の活字などはもう見えなかつた。その中に右の眼も痛み出して、左右交る交るに痛んだり治つたりしてゐた。身体全部の調子が良くなると眼の痛みも遠のいた。

 この頃、癩予防協会で作つた新薬の沃度大楓子油の注射を受けたところ、割合によく効いて、普通の大楓子油では効果の無かつた、皮膚の〔くろず〕んだ血色が次第によくなり、腫れも退〔ひ〕き、胃腸の下痢症状もなくなり、大変調子がよかつたのであるが、この注射をすると、一時的に局部の皮膚に黒い色素が沈澱するので、普通の人はあまりやりたがらなかつた。その為か、間もなく中止になつてしまつたが、普通の大楓子油のやうに化膿する憂も少なく、効果もまさつてゐると思はれるので、もつと学術的に臨床実験を繰返して見て戴き度いと思ふ。私だけでなく、大楓子油よりよく効くと云つて居る人も相当にあるので、この儘になつてしまふのは惜しい。

 話が少し脱線したが、眼の方は、薬をさしたり、罨法をしたり、吸入をかけたり、いろいろ手をつくしたけれど、病気そのものの進行が止まらない以上、眼だけがよくなる筈もなく、左眼では、どんなに近づいても人の顔を弁ずることが出来なくなり、右眼も九ポイントの活字位迄しか見えなくなつて来た。

「俺も愈々盲になるのか。」さう思ひながら、自分をとり囲む色相の世界――庭先の花や、草や、空や、雲に、儚い愛着の思ひを籠めて、訣別の眼差を送つたのもこの頃であつた。縁側にさしてゐる柱の影や、畳を這つてゐる蟻の姿など、何んママでもないものがはてしない深さと美しさをもつて、脳の髄に沁み入つた。アルバムに小さく並んでゐる母や妻や子供の顔に、喰入るやうに見入つたことも幾度であつたか。

 私の周囲の光は、影は、〔かたち〕は、色は、私の眼のくらむのに反比例して、次第に鮮かさと美しさを増してゆくやうであつた。

 晴れ渡つた秋も終りのある日、深く澄んだ蒼い空が次第に夕暮の薔薇色に移つてゆく暫くを、裏山の松の梢越しに瞶めてゐると、嬉しいとも、悲しいとも、楽しいとも、苦しいともつかない、おそらく私が曾つて経験したあらゆる感情が、一瞬に迸つて、脊柱の端から脳の髄までを、ぢーんと貫いた。

 いつか私は涙をさへ浮べてゐた。聖書にも、経典にも、曾つてつひに一度も心からの親しみを感じることの出来なかつた私に、まさに喪はれようとする肉身の明の最後の光に、神は自らを現し給ふたのである――そんなことを思ひながら、蒼然と暮れ落ちてゆく大地に、私の限りない愛着を感じてゐた。


  暮れ蒼む空に見えくる星一つさし翳す手に〔つ〕きてまた一つ



  あらぬ世に生れあはせてをみな子の一〔よ〕の命をくたし捨てしむ


 在るに甲斐ない命、あらゆる望とよろこびから逐ひ〔の〕けられた私の生命を、兎に角この世に繫ぎとめたのは、子供等の笑顔と、母の眼と、妻の言葉であつた。これらのどれか一つが欠けてゐたら、私は、敢て生き永らへてゐようとはしなかつたかもしれない。

 かうして一日一日が暮れて行つた。十余年を過ぎた今では、命のある限りは生恥を曝して居たい程の心持になつてゐる。それにしても、年若い妻を、この儘寡婦にしてしまふのは無惨な気がして、それとなく再婚のことを仄めかしたが、妻は言下に拒否した。両親の隅に何か安からぬものを感じながらも、今では素直に妻の好意を受けてゐる。

 瀬戸の内海に望むある癩療院に、明日は旅立たうといふ日の午後、私達は子供二人と町はづれの野道を歩いた。苗を植ゑるばかりに鋤返へされた水田の面を掠めて、燕の群が飛交ひ、処々の梨畑には、桜桃〔さくらんぼ〕程になつた青い果が鈴なりになつてゐた。いつか大きな鮒を釣り上げた溜池の〔ほとり〕には、白い乳牛が草を食んでゐた。

 子供等の小さい方は乳母車の中で機嫌のよい笑ひ声をたててをり、大きい方は、畦道を駈け廻つて蛙を追ひかけたり、小溝を飛越えて梨の実を拾ひ集めたり、遠くから呼びたてたりしてゐた。すべてが平和に移つて行く初夏のかんばしい昼過ぎの大気の中を、言葉少なに歩きながら私達は、遠い稲妻となつて閃く宿命の敵意を感じてゐた。

 一わたり歩き廻つてから、灯のともり〔そ〕める頃、町に一軒しかない支那蕎麦屋で、父の家に同居してから絶えて久しい水入らずの食事をした。小さい方は乳母車の中で無心な寝顔を仰向け、大きい方も、赤く染らママれた肉の切れや、グリンピースなどをつついてはしやいでゐたが、やがて私の膝の上で小さい寝息を立て始めた。ポケット