Page:AkashiKaijin-Diary with Uta-Kōsei-sha-2003.djvu/3

このページは検証済みです

輪の間を跳び跳び石蹴りの遊びをしてゐる子供達の姿を、黙然とうちまもつてゐた。

 大きな紅提灯の吊るされた山門を抜けて、鍵の手に折れた敷石路が、七八階の石段となつて本堂の前に続くあたりに、白衣の一団が、鈴を鳴らしながら御詠歌を歌つてゐた。「父母の恵は深き粉河寺……」暮れるとも無く暮れおちてゆく入相〔いりあひ〕の空に滲み入る哀調は、この幾日かを誰に語ることもなく過してきた私の歎きを、とめどもなく涙にうるほした。

 それにしても、父母の恵のあまりに薄かつた我が子の短かい命――青い岩塊を積上げてところどころに竜舌蘭を植ゑた築山のかげで、絶えては続く鈴の音に、聞くともなく耳を澄ませてゐると、日を経る儘にやうやく実惑となつて迫つて来る我が子の死がまざまざと感じられ、石の肌に冷たい涙をおとしながら、匂やかな宵に移つて行く千金のいつ〔とき〕を、私は声を呑んで〔な〕いた。

 やがて人影のまばらになつた本堂の前に額づいて、あの故郷の墓の下に眠る我が子の瞑福を祈りながら帰つて来ると、夕暮れのしじまに、金鱗をひらめかしながら緋鯉の跳ぶ泉水のかたはらの鬼子母神堂に、墨文字のにじんだ奉納の手拭や赤い足袋などの間に、何処の母親の念願か、一房の黒髪がさむざむと夕闇を吸つてゐた。


  萌えいづる銀杏の大木夕づきて灯ともりたまふ鬼子母観音



  兆しくる熱に堪えつつこれやかの環が声を息つめて聴く


「環女史来る。」の噂が待望となり、待望が愈々現実となつて、三浦環女史をこの島、長島愛生園の礼拝堂にお迎へしたのは、一昨年の紀元節の当日であつた。この日女史は岡山で公演される忙しい日程の中を、態々わざわざお訪ね下すつたのである。ふだんはソプラノなどには怖毛をふるつてゐる老人達までが、続々と礼拝堂へ集つて来て、神妙に膝を正してゐた。

 やがて、導かれて這入つて来た女史の面は、さつと沈痛の色が走つた。堂に溢れた今日の聴衆の異様な相貌が、女史の鋭敏な神経をかき乱したのであらう。まことにその通りで、一人前の顔形を具へたものは一人も無い。今日まで華やかな聴衆の前でしか歌つたことのない女史には、怪奇にも無残にも映ったのであらう。

 不自由な手を叩き合す寂しい、けれど、ひたむきな拍手の中に幾つかの唄が歌はれた。私は環女史の肉声を聴くのは今日が始ママめてであつた。人の世を離れたこの島で、ゆくりなく聴くこの人の声は美しくも悲しかつた。殊に、お蝶夫人の最期の唄――床の上に掌を突き、肘を突き、花模様のを惜気もなく曳きながら、短剣を咽喉に擬して歌つたお蝶夫人の最期の唄を、私は何時までも忘れることが出来ない。

 歌が終つてから挨拶をされた言葉の中で、自分は今迄数多あまたの人々の前で歌つて来た。外国の皇帝や、皇后や、大統領などの前で歌つたが、今日程心を打たれて歌つたことはなかつた、と云はれたとき、女史の眼には美しい涙が光つてゐた。次で、患者総代が感激にをののく声で謝辞を述べた頃には、女史を始め一千に近い会衆は、一つに融け合つたよろこびとも悲しみともつかない感激に、或は落涙し、或は嗚咽してゐた。


  沈丁のつぼみ久しき島の院にお蝶夫人の唄をかなしむ



  おぼろかに器の飯の白く見えてをだやむいたみに朝を〔すぐ〕しぬ


 私の眼は一昨年の正月激しい眼神経痛を起して、しばらくの中に失明してしまつたが、それまでの経過は至つて緩慢で、少しづついつとはなしに悪くなつて来たので、 始の間はさう不自由を感じなかつた。

 嘗ては人一倍視力が強く、遠くの方のこまかい物迄他の人よりもずつとよく見え、空気銃の照準なども確で、腕白時代には、雀撃ちでは私の右に出る者はなかつた。ところが、五六年前、ふと、左眼では遠方のこまかいものをはつきりと見ることが出来ないのに気が付いた。私の病気も愈々眼に来たのか、さう思つて、なるべく読書なども控へてゐたが、少しづつ増悪して、それから一年ばかり後の或日、つひに痛みだした。

 ぢつとして居るとさうでもないが、眼球を動かしたり押へたりするとひどく痛む。鏡で見ると真赤に充血してゐる。診察を受けたら虹彩炎だとのことで、アトロピンを注して貰ひ、眼帯を掛けてゐると暫らくして〔よ〕くなつた。この頃から、それまではどうしても掛ける気になれなかつた黒い眼鏡を掛け始めた。痛んでは治り、治つて