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三十三番の札所詣りの老若男女が、白い手甲に檜笠といふ昔ながらの扮装〔いでたち〕で鈴を振りながら、巡礼唄ものびやかに幾組も家の前を通り過ぎて行つた。

 子供の病気のことは何にも報せて来てなかつたので、急に死んだと云はれても、どうしても本当のやうな気がしなかつた。にも拘らず、私は何となく腹立たしかつた。 父たる自分の知らない中に死んでしまひ、葬式までが済んでゐる。こんな事があつてよいのだらうか。然も、事はすでに行はれてしまつてゐる。何たる事であらう。父や母の気持はよく分りながら、ぢりぢりと湧いて来る忿〔いかり〕をどうしようともなかつた。父も、母も、妻も、自分自身さへもが憎らしかつた。やがて、再び妻の手紙を取り上げて、何度も読み返したが、読んでゐる中に、長い看病とそれに続いての悲しみに打ちひしがれた妻の姿がまざまざと感じられ、はてしのない追憶に、いつか冷たい涙を流してゐた。

 妻に連れられて来て、ここの家でも二三日一緒に暮したことがある。青切りの蜜柑が出る頃で、畳の上にそれを転がしてはよろこんでゐた。すつかり私を見忘れてしまつて少しも馴染まず、片時も妻の傍を離れやうとはしない子供の、静脈の透いた額のあたりを見ながら、私は何か暗い恐れを感じたことがあつた。二三日して帰りを駅迄見送つて行つた。暮れ方の汽車は込み合つてゐて、窓の外に立った私に、車室の灯の下からほほ笑みかけた妻が、背中の子を振りむけるやうにしながら、「お父ちやんにはいちやいをなさい。」と云つたとき、子供は眠たさうにむづかつてゐた。慌しい別れであつた。汽車が動き始め、後尾の赤い灯が陸橋の影に消えて行つたあとには、白いレールだけが冷たく光つてゐた。あれが最後だつたのだ。二三日しかゐなかつた子供の匂ひが、今も壁や畳に沁みついてゐるやうな気がしてじつとしてゐられなくなり、紫雲英の花ざかりの野道を、私は一日中さまよひ歩いた。

 光の礫となつて匂やかな大気を顫はせながら飛び繞る蜂の群、巻貝は川の底の石に、縞の赤いみみずの仔は鉄気〔かなけ〕の浮いた水泥の中に、それぞれの営みに余念もない。玉葱はほの白い坊主頭をふくらせ、遠くの方で家鴨が鳴いてゐる。家畜市場の方から、赤い〔きれ〕を頸に着けた仔牛の群が追はれて来る。物皆が光の微塵にまみれてゐる。けれど私には、それ等を綴り合はせて、私自身の春の感覚を彩る余裕はなかつた。すべてが私に背を向けてゐた。光も、声も、硝子の破片のやうに私の傷口を刺して消えて行つた。私もすべてに背を向けた。道ばたの石くれを、一つ一つ溝川へ蹴りおとしながら、あてもなく歩きつづけた。石で打殺された青い蛇をも見た。砂塵を捲きながら目の前を真黒に〔はし〕り去る貨物列車をも見た。けれど、春の香気にとりのこされた私の魂には、悪魔さへ見むきもしなかつた。

 いつか、毒蜜のやうな夕闇が土壌からにじみ出し、花々の息吹に睡る野の涯には、遠い〔しあはせ〕のやうに人の世の〔あかり〕が瞬たいてゐた。私は再び、生きものの気配もない紫雲英畑の中の家に帰へつてきてゐた。

昼こそは雲雀もあがれ日も霞め野なかの家の暮れて〔かそ〕けさ



花散るや五層の塔の朱の〔さび〕今日の一日を暮れなづみつつ


 白壁づくりの家並が低い軒をつらねてゐる粉河の町は、何時も蜜柑の匂ひに染みてゐた。アカシヤの木立が白い花房を匂はせてゐる駅の前から、一本の道が真直ぐに、西国三番の札所粉河寺の仁王門へ続いてゐる。その道の両側にこびり付いてゐるのが粉河の町である。

 打田には物を売る店が無かつたので、いつも買出に出掛けて行つた。目つかちの肉屋のおかみさん、リンコルンのやうな髯面の果物屋の亭主、翼のやうに耳朶みみ〔たぶ〕のひらいた本屋の主人公などと、いつか知合になつてゐた。

 子供の死んだ報せを受けてから二三日の後、粉河の町へ買出しに行つたが、私の悲しみ――自分の子供が死んで、いつの間に葬式が済んだのか知らずにゐたなどと云ふ、他人事だつたら馬鹿馬鹿しいやうな繰言を聞いて貰へさうな知合ではなかつた。少しばかりの買物を済ませると、巡礼達の鈴の音に〔つ〕いて粉河寺へ向つた。

 仁王門を這入ると、赤い旗を掲げた甘酒茶屋に金色の釜が光つてゐる。銀杏の老樹の下を過ぎると、奉納者の名を一つ一つに刻んだ石の玉垣の向ふに、僧坊の黄色い土塀が低く連なつてゐる。

 アメリカ移民の多い土地柄だけに、金門湾の写真や眼の碧い人形などが、戦利品の鉄砲や日本刀などと共に奉納されてゐる絵馬堂には、白い手甲に檜笠の巡礼が二三人休んでゐた。彼等の疲れた眼は、折柄の夕陽を浴びながらひとしきり散りまがふ花吹雪の中で、地面に描いた