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に抱き付かんとしたるより、右第一刀を以て永田局長の背部を斬ると同時に新見大佐の上官たることを認識せずして同大佐の左上膊部に斬付け因て同部に長さ約十五糎幅約四糎深さ骨に達する切創を負わしめたるものなり。

証拠を按ずるに判示事実は

一 被告人の当公廷に於ける判示被告人の経歴より愈々陸軍省軍務局長永田鉄山殺害の最後の決意を固むるに至る迄の事実に付、判示同趣旨の供述、

一 被告人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は予てより永田少将が軍務局長たる事は陸軍を毒するものと信じたる為七月十九日辞職を勧告したるが之に応ずる色なく、次で同月下旬粛軍に関する意見書を取上げ村中、磯部を免官せしむる話等を聞き益々永田局長が陸軍を攪乱するものと認め彼を斥ける為には殺害せねばならぬかと思い居たる矢先、八月一日台湾へ転任の事を知り赴任の上は容易に上京の機会を得難く赴任前に決行しなければならぬと考え、同局長殺害の為特に軍刀を佩び八月十日福山を出発し十一日品川駅著同夜西田税方に赴き一泊したり、西田方へ行けば何か変った話があるかも知れぬ故万一血を見ずに納まれば之に越したことはないと思い一屢ママの望みを期待して西田の家へ行きたるに大蔵[栄一]大尉が来合せ、西田や大蔵の話に依り此の現時の憂うべき大勢を覆す様な計画はやつて居らぬから此の現状は継続すると考え、之は如何しても血をぬらさねば納まらぬと思い益々決行の決意が強固になりたり、

翌日西田方を出て陸軍省に行き山岡整備局長に転任の挨拶を為し夫れより其の部屋を出て永田局長の部屋に行きたり、其の際の服装は軍服に軍刀を吊り永田局長の部屋に這入はいりたる処同局長は机の前に腰掛け確か其の机の前に二人居て相対し話をして居たと思う、自分が這入って行くと永田局長は二人の客の処へ遁れ三人が一緒になったと思う其の時自分は永田局長を目蒐めがけて一太刀を浴せると扉の処へ行かれ、私は其の扉の処で右手で軍刀の柄を握り左手で刃の処を握り永田局長の背中を突刺したるに応接卓子テーブルの傍へ走り倒れたれば、其の跡を追い同局長の頭を目蒐け一太刀浴せ、夫れより其の部屋を出たる旨の記載、

一 被告人に対する予審第七回訊問調書中同人の供述として、自分は軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書、教育総監更迭の事情と題する文書及八月二日小川[三郎]大尉から受取りたる粛軍に関する意見書を読み、永田局長が国体原理に基き皇軍を指導統制し皇基を恢弘かいこう即国家革新昭和維新に進まんと志す真崎教育総監及我々同志の者を排斥せんと画策したる事を認めたり、即右文書に記載し在る十一月事件又は教育総監更迭問題等其の他の事実は明に永田局長が重臣財閥官僚と款を通じ、自己の政治的野望を遂ぐる為に或は無根の事実を陰謀偽作し或は大臣をして統帥権干犯を敢て為さしむる様画策したる事を一層明瞭に知り、其の為に自分の永田局長殺害の決意に大なる刺激を与えたり、尚自分は右文書の内容に付永田局長が画策したと云う真否に付特に自ら調査研究したる事なき旨の記載、

一 被告人に対する予審第十一回訊問調書中同人の供述として、村中の作成したる教育総監更迭事情要点と題する文書や出所不明の軍閥重臣閥の大逆不逞と題する文書中に、真崎教育総監の更迭は統帥権干犯なりと書き在るを見て自分も同感したるが其の外に深き根拠なし、尚右文言に書き在る如く永田局長が総監罷免を大臣に進言したる事は事実ならんと推測したるものにして、之と云う確証は持ち居らざる旨の記載、

一 証人西田税に対する予審第一回訊問調書中同人の供述として、昭和十年八月十一日夜相沢三郎は自分方へ訪ね来り宿泊し翌朝食事を共にしたる後出発されたるが、前夜相沢が来訪後大蔵大尉が自分方へ訪ね来りたる旨の記載、

一 同証人に対する予審第二回訊問調書中同人の供述として、自分は相沢より東京の情勢如何と尋ねられた様に思う、之に対し自分は其の後変化なしと云う様な意味を簡単に答えたと思う旨の記載、

一 同証人に対する予審第三回訊問調書中同人の供述として、相沢中佐を知ってより相当の年月を経其の間