奴隸に關する討論は絕えず行はれたりと雖も、此の制度に反抗する北部人民の良心の激動は甚だ遲緩なりき。之に反し、南部人民の感情は頗る猛烈にして、南部の要求、若し貫徹せざるときは、斷然分離して別に南部の一聯邦を組成すべしと稱して、常に北部を威迫せり。此の分離より聯邦同盟を救ふ爲に、一時凌ぎの妥協は數々試みられしも、期滿ちてこは何等の効果なく、千八百二十年、ミゾリーが一州として聯邦同盟に加入せんとするに當り、更に一種の妥協成り、ミゾリーを以て奴隸制を有する最後の州と爲し、以後新に聯邦同盟に加入する者には、一切此の制度を許さざることゝなれり、之を「ミゾリー妥協」と稱す。後千八百五十四年に至り、