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 元朝祕史の原本は、元の太祖︀及び太宗の時に成りし「蒙古の祕史」にして、畏兀兒文字を用ひ、蒙 古語にて記されしものなるが、明初、朝廷に於いて、その文字を漢︀字に改め、字音によりて原語を 寫し、且つ原語の一々に對する支那語譯と原文のやゝ自由なる支那文譯とを附し、元朝祕史と 名づけて之を刊行したり。然れども傳本甚だ稀にして世これを知るもの少かりき。その我 が國に存するに至りしは、明治三十四・五年の交、淸の文廷式が其の家藏の鈔本を更に鈔寫せし めて一本を內藤博士に贈︀り、內藤博士は更にこれを鈔して那珂博士に贈︀りしに始まる。

 那珂博士は此の書を得て欣喜し、之によりて蒙古史の硏究に裨補するところ多からんこと を期待せられしも、本文は漢︀字にて音譯せられたる蒙古語なるを以て、之を解讀して其の眞價 を究明するには、確實なる蒙古語の知識を要す。然るに、當時我が學界にありては、之に通ずる 者︀殆ど有らざりしを以て、博士は深く之を慨︀し、數〻その學習を後進の學徒に慫慂せられしも、 多くは逡巡して志を決するに至らざりき。是に於て、博士はみづから奮つて其の任に當らん とし、銳意これに從事せられしも、當時にありては參考文籍極めて乏しく、コワレウスキーの蒙 露佛辭典、ゴルスツンスキーの蒙露辭典の如きも、未だ將來せられず、たゞ僅にシュミットの文 典と語彙多からぬ辭典との存するのみなりしを以て、その困難は甚だ大なるものありき。然