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作者の氏名は明らかでない。元の太祖︀チンギスに始まり太宗オゴデイの時事に及ぶ。 金の章宗の泰和二年壬戌(1202年)に干支で年が記され始めてから(太宗が死去する)辛丑(1241年)まで40年になる。 元史には元の世祖フビライの中統四年(1263年)、参知政事の修国史だった王鶚が太祖︀の事績に関する広い要望を歴史編纂所に託したと記されている。 本書はその時の作である疑いがある。元史は出来事の順序がでたらめで、語はきわめて不自由でつたない。 また訳語の間違いが批判されており、ところどころ事実が失われ不可解なものもある。 しかしながら元史と本書を比べると、書かれている事柄の多くは本書がもとになっている。 元史は「太祖︀は四十の国を滅ぼした」と言うが、四十国の名は揃っていない。 本書も同じくまったく載せていない。太祖︀時代のことが世祖︀時代にすでに判らなくなっていたことを考えれば、 すべてが宋濓や王禕(いずれも明代初期の史家)の落ち度ではないのだろう。


私は元聖武親征錄を太守の徐星伯(徐松)先生の所で初めて見た。詹事に所蔵されていた本を錢竹汀(錢大昕)が写しとり、さらにそれを抜き書きしたものである。 正三侍郎家の所蔵本を先生が又借りなされた。私が書き写して先生が校正し一通り点検した。 その書は長い間誰も読まず、収集家に預けられ、その誤りについて聴いた。いばらの棘の中を行くようなもので、しきりに服は引っ張られひじにかかる。 また、苔が生えている壊れた石碑を撫でて読むようなもので、上下の文が関係しあうものが1つ2つあるかどうか。 仲間の友人がこれを観たが、簡単には終わらず、たちまち放り出してしまった。願船にその難を独りで越えられるよう願掛けしてから、この詳校を行った。 独り言「一字一句に疑いがあり、十日考える。十日余りおきに校本を見ては数十条加えた。数十日これを続けた。 原本を記し始めたばかりの頃は行間は眉の上で字は蠅の頭のようだった。おそらく十中五六が得られた。再び草藁を練り込んで鉛黃を混せ合わせる。ようやく十中七八が得られた。 近くでは補正で多くの益があり、手作業で書き写した。これを読み直すと遠くまで見通せるようになった。この原本と比較すれば、整理した功は戦争での武功と比するものだろう。 昔、太史公(司馬遷)は之を名山に藏めると著述したのは極めて丁重なことである。後世の者が学ぶことを好み深く考え意味を知る人であることを願う。 およそ天下に文人は多いが学ぶ人は少ない。学ぶ人がいなければ書くことがなくなってしまう。 願船のおかげでどうして太史公の願いを得られないことがあろうか。もとより、この書は考証資料として無駄にはならない。平定(現在の山西省陽泉市平定県)の張穆。