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オタサンは昔より土人部落にして小田寒川の北方に古川(沼)がある。其處を(オムーナイ)解(オム)(滿)水の滿つる川と云ふ意味である。

 小田寒川は鱒の遡上すること、東海岸で有名な川で有る。上流には、ハツタラと稱する川の深き所が有る。其處に群集する鱒を土人は之を獲して食料にするなり。

 露領時代は此オムナイの邊りに三棟、夫れより百間斗り北方に四棟あり。當時の散在部落として戶數の多い方で有つた。此處の舊家として、ハイバツテアイヌが元の酋長の後裔である。

 露領時代に成りて、故坪澤六助氏が總代となり、後は栖原時代の邦人の後裔であつた。坪澤氏には二男一女が有つたが不幸にして長男は白濱部落に移り評議員となり大正十一年に惜くも故里の旅に就いた。年は四十歲前後の壯年で有つた。今一つ坪澤氏の不幸が續いた。二男金太郞氏の實弟、六太郞氏で有る。彼は白濱部落の靑年團長として部落靑年の模範を示して居たが之又父兄の後を追ふて沒せられたが、白濱部落の爲め、前二氏の外總代、內藤勘太郞氏、相濱前總代故木村愛吉氏の後任安根安太郞氏及び白浦の總代白川磯太郞の三氏に行かれたのが誠に惜しき事で有る。

 以上の三氏を白濱部落の部に書落せしに就き此小田寒の稿に記載する事とせり。併して安根安太郞氏