Page:樺太アイヌ叢話.pdf/93

このページは検証済みです

より木村愛吉氏が此處に移住し、靑年時代は白浦詰の役人に使はれた事も有ると氏の話で有つた。露領時代は非常な交際家であつた爲め、氏の存命中は邦人及露人、アイヌ間、各方面の信用を得たのであつて惜い人で有つたが、大正九年に病沒した。其實兄のシレクアイヌは其以前に沒し、其長男ポンチクアイヌは大正十四年に沒し、氏の妹チユサンマは現存で居る。ポンチクアイヌには一男運太郞君が現存で居る。チユサンマは、日露交戰前、樺太に露國モスクワ大學より人類學硏究に來島したるポーランド人にて理學士ブロニスラーブ、ビルズウースキー氏は、三四年滯在中令女と終に男女の交を結び明治三十七年一子を生む。木村助藏同三十九年に一女(きよ)の二子を產み是等は健全で白濱部落に居るなり。然して木村愛吉氏は子無く其少しく遠緣者の子にてレエコロアイヌ改名木村愛助君は愛吉氏の相續者として現存して居る。愛吉氏は露領時代二ケ所の漁場を經營すると共に異人種よりも尊敬せられたのである、甞て東京讀賣新聞記者松川淸氏の、樺太視察の(著書中に)相濱の稿有り。

 樺太廳長官平岡定太郞閣下を知らぬ者ありても、木村愛吉氏を知らぬ人が無い云々と載せられてあつたが全く維新の豪傑西鄕翁は斯く有らんかと思はしむるなり。又同氏が永眠された當時仙臺高校敎授の二先生が氏の爲に哀傷の辭を、新聞紙上に連載されたが、余は此二先生の哀傷辭には感淚に堪