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內に於ては大谷、內淵、小田寒、白浦の四箇所に敎育所を設けアイヌ兒童敎育に盡力せられるに至つたので有る。

(三)リヤルエサン(里耶累)

 リヤルエサンの解、リヤ、越年、ルエサン(處の道)即ち越年する處の道路と云ふ意味で其山の方に越年屋があり、其處より、現(リヤルエ)に出るを以て名付たるもので有る。露領時代は、一漁場に過ぎなかつた此處に露國人のイワナーブーズリムと云ふ露人が漁業權を得て現野寒の總代勝部長三郞氏が此漁場を經營して居た。此が經營し第二者は、泉氏が行ふ樣になり其後露政改革され泉氏の漁場が內淵川口附近となり、元の里耶累が若山氏の漁場と成つたのである。


三八、アイ(相濱)

 アイの解、アイとは弓の矢の事にして、此の川の奧に弓を張り、獸類の通路に張り置き獸類が通ると弓の糸にさわると、弓が自動的に矢を發射し獸類を射止るので、其弓の矢を命名したのである。此のアイ部落は昔からのアイヌ部落で酋長にはハセランケアイヌの初代の酋長なり。明治初年頃、小田寒