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で立往生せなければ、成らん始末であつた。又夜行の際は無論其處で焚火をして野宿する事になる。

 余が始めて來た當時其樣な事に會た。此現內淵川橋の處をカヨヲルエサンと云ふ。其名稱の意味はカヨオ呼ぶルエサン處の道、即ち此道迄來て船を呼ばなければ渡る事が出來ないので余も此處迄來て呼だが漸く渡して吳れたのが、白髮のを爺さんが著者の四歲の時別れた、ケエランケアイヌで有つたので彼の驚き且つ喜びは一方でなかつた。

(二)渡船の滑𥡴談

 或日一露人が此處に來り渡船をたのむにアイヌ語を以て(アイヌナーチプコンテ)アイヌ舟を吳れと呼んだ。處が彼の靑年が餘り五月蠅からクソヲマクラヘと返答した處彼は何と聞いたか否言葉が判らなかつたので、何んでも渡してやるとか又よろしいとか云つた物と思つたのか彼は露語でポロシヨーよろしいと答へた。此河の渡守を余は明治四十年より兼營した。然して此部落に明治三十四、五、六、の三冬期間アイヌ兒童敎育が行はれロレエ・ナイブチ、オタサン、白浦、眞縫、大谷、志安等の兒童も、露政廳の補助を以て敎育したので有る。

 越て大正元年十二月土人敎育所は樺太廳の補助に依り、兒童を敎育する事になり樺太廳豐原支廳管