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居た折で有つたから、直ちに二階に登り此の亂暴なる彼等の行爲を主人(亡父)に吿げたので有る。主人は此事を聞くより(ヨシ)と斗り一刀を提げ階段を下りる。一言して我一人だ彼等は多勢なりと雖も恐るゝに足らず。命の交換我死するか彼等を殺すか今に見よと、戶外に出れば彼等は床の下より櫂を引出して行かんとする處で有つたが其勢を見て彼等は櫂を捨てゝ銃も其儘に逃げ一人が長き棒を以て抵抗し來るも只一刀にて其棒を切り付けたるに彼又其棒を捨て逃げ去つたのである。彼是する內に相濱より彼等の隊長が來りし故彼の隊長に談判した所隊長は彼等の不正行爲に深く謝罪して後に長靴二足及びターチカと稱する毛布二枚を謝罪として送り夫れより互に親密の交を結んだので有る。併して明治八年樺太引揚の際、家も倉庫も其儘にして邦人全部が樺太島を去つたので有る。然して此部落內の土人部落の當時の酋長はケエランケアイヌで有つたが、二代目酋長はチウコイレアイヌ三代目は余に其番が當つてから大正十年迄御奉公したので有る。又余が明治二十八年復歸した當時は元と相變らず只三軒叢らの中に建てゐた。

 當時は內淵川の渡船する者なく、相濱方面より來る者は必ず、現內淵橋の處迄來て部落の方へ大聲に呼ばなければだれも渡し吳れる者はない、若し風の都合で部落迄、呼聲が聞えなかつたら最後其處