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 著者余が亡父の北地開拓に關する遺歷の一片を左に記述せり、慶應三年十一月國元發足函館に着く、同四年即ち明治元年六月北蝦夷地久春古丹に着く、

 此時、天朝にて北地御開拓なり、樺太詰取頭權判事岡本監輔氏也、明治二巳年正月普請方手配行屈候に付金子拜領、同年四月土着被仰付貳人扶持に金三拾兩づゝ被下置旨被仰渡し、同年五月民政方拓地掛り屢事席被仰付、同月榮濱詰被仰渡し、同六月御賞與金貳千五百足拜領、明治三年七月開拓筋の盡力無怠段奇積之事に候に依り金千五百足被下置拜領、同年九月使部被申候

 堀監事廼浦之節明治四年十一月在職中勉勵に付金貮拾兩頂戴、以上樺太に於ける遺歷にしてナイブチ川の前記の處に二階建の家屋を建設移住民當時平右衞門、勘、德治郞等の邦人が此處の開拓に從事したのである。

露兵の暴行

 前記の如く露人は內淵河の右岸にアイヌ人は左岸に居住して居た其當時內淵河には一定の渡守がなかつた。或る日露兵が七八人內淵より相濱に至り歸途我が家の前に銃砲を組立て二三の者家內に入り口笛を吹きながら何か床の下を搜し步む樣で有る。此折平右衞門と云ふ男が階下で玄米を臼で搗いて