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 併してチヨココツセとは漏ると云ふ名詞である。此處は栖原時代北海道沙流郡(日高の國)の土人等が地曳網を行つた處と北海道平取の故老酋長ベンリアイヌ翁が明治三十六年著者に話し聞かされた。又此處は露領時代前稿記載の相濱の土人トチムンランゲが露政廳より許可された漁場の一ケ所で有る。現榮濱專用漁業組合の漁場となり組合員は年々此處で漁するので有る。


三七、ナイブチ(內淵部落)

 ナイブチの解、ナイブチとはナヨブチの轉訛である。ナヨブフ河口の稱名で即ちナイブチ河口の近くに有る部落と云ふ意味で有る。現內淵川は現相濱の裏を北へ流れ、凡百年前迄は現里耶累方面に流れ其後に現河口より一千間位の處へ流れ、次に大正五年十一月三十日現在の河口に變じたのである。著者の內淵に生た頃明治五年迄は里耶累方面に河口が有つた頃で有る。其頃余の家は第三河口より約千間即ち現河口の左岸の所が夫れで有る。而して川の右岸には部落が有り土人の戶數は余の(母の兄)伯父の家と四棟で有つたが其後一人の(監視人)露人妻帶者が或年限に交代せしめ、最後即ち明治三十七年二月中旬迄(山林官)夫婦が駐在して居た。